鶏のまにちゃん

アド・アストラの鶏のまにちゃんのレビュー・感想・評価

アド・アストラ(2019年製作の映画)
4.2
つい2日連続見に行ってしまった。人の孤独の話だったから。

何よりもまず、とにかくすべての絵が美しい。デジタルじゃなくてフィルムなので、ざらついた画面と、どこかアナログが残る世界観(支払い時には機械で指紋を読み取ればいいのに、宇宙船には紙の本が置いてあるし、宇宙軍の人は紙でメモをとってるし)。そして何より、その色使い。
地球の美しさはあっという間に終わって、影と闇の多い単色の宇宙、そして白と黒のくっきりとしたコントラストの月。火星はひたすら赤く暗く、人々は偽物の自然の映像でなんとか正気を保っている。無慈悲なほど美しく雄大な木星や土星、そして海王星の鮮やかな青。

この映画は宇宙ミッションが問題ではなく、宇宙への憧れが問題なのでもなく、「自分は何者か」あるいは「どのように生きるか」の映画だと思う。
地球から海王星にいくにつれ、どんどん周囲から人は減っていくけれど、常にロスは自分しかいない。

主人公のロスは、内なる自分と対話し、失われてしまった恋人との絆を反芻し、父から送られてきたメッセージに取り組み、母の腕の中から見た外の世界を思い出している。彼は「俺に触れるな」と拒絶し、身近であるはずの恋人から触れられることすら受け入れることができなかった。
危険なミッションでもその心は波風のひとつもない。彼は「閉じている」からだ。彼の世界は彼の中に閉じていて、彼は常に繭のようなものの中から、外の世界を見ている。彼の繭は固く、彼は繭越しから人々と触れ合う。それは近しい人であればあるほど明白になる繭で、だから恋人は関係に終わりを告げた。彼はそれを反芻している。後悔して泣くこともない。怒ったり、反省したりもしている様子はない。ただ「内側」から「外側」である恋人のことを眺めて考えているのだ。彼は外とどのように接したらいいかずっと決めかねているのだ。

そんな中、父の生存が知らされる。父の旧友(この父の友人プルーイットの方が、むしろ父らしいようにすら感じる、特に最後まで彼と一緒に結末を見届けようとするところが)と父について話をする。そこから、少しずつ何かがおかしいことに気づき、自分が知らないことを知らされる。
彼の心拍数は上がり、情緒は乱れ、憤る。多分父は彼の最初の世界で他者で「外」だったのだろうと私は思う。なぜ父は自分との約束を破ったのか、父は何をしているのか、どうして「最初」の関係が「失敗」に終わったのか?ロスはずっとそこでつまづいていたのだろう。最初の謎が解けない限り、恋人との関係も前へは進めないのだ。

月では、商業的で浮ついたくだらない「外」の現実を受け入れがたく思っているシーンが描かれる。そして、家族の写真を貼った機体、死んでいく人々を経て、ガタのきた体を押してついてきてくれた父の旧友との別れ。
そして、「自分の苦しみとその任務の重大さ」を知らない無邪気な担任たちとともに火星へ向かう。でもそれは、本当は違ったことが、火星を離れる時にわかる。
月で浮ついたお気楽な人々にうっすらとした嫌悪感を抱いていたロスが、共に火星へ行く何も知らない人々だ、とどこか「上から」見ていたのは自然な流れのように思う。彼は自分のことばかり考えているのだ。自分が一番不幸だと信じているわけではないが、彼は自分の苦しみや、自分の人生の意味のことばかり考えていて、「外」の人たちに同じような何かが降りかかるという発想をできないのだ。

さて、火星だけれども、ルースネッガの黒い服と、赤い火星のコントラストは本当に美しい。ロスとルースが初めて会った回廊のシークエンスは、その美しさゆえになかなか忘れることができないだろうと思う。
「一人」で生きてきたルース・ネッガ、「孤独」から抜け出すことができていないロイ・マクブライド。ルースは迷わない。彼女は自分の出生と、親の歴史を知っている。彼女は準備ができている。その決然とした様子。辛そうにしていても次の瞬間顔を上げて世界を見ている。ルースの部屋を出た後、ロイは振り返るが、ルースは振り返らない。
(ところで、ルースの部屋に置いてある不似合いなテディベアは、親からの贈り物だったのだろうか?)

地底湖を抜けて赤い大地を歩くロイのカットも美しい。

ロイが見ているビデオが恋人との美しい思い出ではなく、恋人が何を不満に思って何に怒っていたのかを話しているものなのがとてもいい。それが、ロイの父とロイの決定的な差だと思う。彼は「外」と触れ合いたいと願っていたのだ。その準備ができなかっただけだから。