ろく

エアセックスのろくのレビュー・感想・評価

エアセックス(2011年製作の映画)
3.8
「城定監督の視線の権力性についての一考察」って論文が書けるくらいおなじみの「観る/観られる」の関係性。

それは「悦楽交差点」でも「シュレディンガー」でもさんざんレビューで描いたけどこの映画もそうなんだ。実は城定のテーマはほんとに一貫しているんだよ。とくにこのころの城定はそれを執拗に追っていく。それはあたかも同じテーマを繰り返し述べる私小説作家のようだとも感じてしまう。

映画は「客の自由」で見られる。そこは一方的だ。「映画は見られる」ものでしかない。権力構造は観客>映画になるはずなんだ。それは多くの監督が思っていること。だから「観客」の見たいものを映画は作ろうとする。ハリウッドなんかまさにそうじゃないか。観客動員で一喜一憂するのが映画の世界なんだ。

でもね、その軸はたまに崩れるんだよ。映画が「観ること」を強制し、観客に観ることを強いる。ここにおいて権力は逆転する。観ているものは「強制される」。その快楽こそ映画の快楽なんではないか。それはこの映画でも範田紗々が吉岡睦夫に行うこと。そして吉岡は「観る」ことしかできなくなる。

題名からわかるように範田はエアセックスしかしない。ただ「見せる」ことで吉岡を翻弄する。そして吉岡はそんな範田の希望を受け入れる。吉岡は「操られる」。範田は見られる=弱い存在から見せる=強い存在に変化する。そう、「見せる」ことの権力が顕在化するんだ。

でもね、この映画ではその「見る/見られる」関係が最後大きく崩れるんだ。そしてその中で「ともにつくりだす」に変わっていく。それは「映画」もそうでないか。「見る,/見られる」の固定化から脱却し新たにともに作り出す。それはヘーゲルの弁証法のようなものかもしれない。その時映画としての快楽が生まれる、そう思ってしまうのは飛躍が過ぎるだろうか。

ともに作り出しているときの城定はとんでもないロマンチストだ。範田と吉岡は最後、暗い部屋の中でフォークダンスを踊る。そこには見る/見られるの関係ではない。ともに作る関係だ。たしかに観ていてあまりにものロマンシズムで苦笑するかもしれない。それでも僕はこの「ともに作り出す」が好きだ。
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