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戦場でワルツをの文字のレビュー・感想・評価

戦場でワルツを(2008年製作の映画)
4.5
 アニメーション・ドキュメンタリーの嚆矢となった作品。まさしく現象学的芸術といっても差し支えない素晴らしい作品だった。レバノン侵攻時の悲劇を描く。監督自身の従軍時代の経験あるいは記憶を元に制作されている。記憶の反証不可能性、不確実性を巧みに表現しており、戦争体験を安易な物語へと回収させることなく、普遍的なものを追求しているように見えた。アニメーションであるにも関わらず、随所で人々の顔がイメージのない形象であるかのように、仮象として意識の俎上に上がってこなかったことが不思議だった。個別の存在を示そうとするわけでもなく、逆に意味の措定を拒んでいるようにも思えた。アニメーションで描かれる個々別々の顔は、わかりやすくもあるけれども、そのことがかえって解釈を困難にする、解釈を放棄させるために機能しているのだろうか。
 レバノン内戦・レバノン侵攻がどのような出来事であり、どういった歴史的背景から発生したものであるのか、当時の社会構造はどのようなものであったのかというような背景描写は殆どない。その意味では不親切な作品とも言えるかもしれない。しかし、そういった情報を作品から極力削ぎ落とすことによって、ある一人の個別的経験であるという認識に至る。その意味合いにおいて、事前に背景知識を特に入れることなくこの作品を鑑賞したことは良かったかもしれない。レバノン侵攻という特殊性を排除しても、この作品は依然として特殊性を保持し続けている。一人の兵士の個別的経験という特殊性である。あくまで特殊的なものでありつつも、同時に記憶の不確実性を伝える普遍性を有した作品となっている。個別性を有しながらも同時に普遍性を持つ作品はもちろん数多あるが、アニメーション・ドキュメンタリーという手法がそれを際立たせているのではないだろうか。ドキュメンタリーは元来極私的なものを実際の映像を用いて表現を試みる、「現実」を表象するものであるが、一方でアニメーションは「現実」とは遠いところにあるものも表現可能なものである。本来両者は対立するものであるかもしれないが、合わせることによって個別的経験というものを描きつつ、「現実」を超えた意識(あるいは、無意識)を描こうとする。超越的視点を持ってして作品を鑑賞することさえ可能にする効用があるのではないか。アニメーション・ドキュメンタリーという一見すると矛盾を抱えるような表現技法に関しては毀誉褒貶あるだろうが、少なくともこの作品に関していえば「現実」を超えたものをドキュメンタリータッチで描く実験的試みは画期的だったと思うし、評価できる。
 わりと作品の早い段階で記憶の不確実性というものが示される。記憶はいとも簡単に改組され、また忘却されるということが。そもそも記憶というものがあるということは自明でありながらもそれを反証することはできない。記憶は「在る」の否定の「ない」の否定として、あると考えられるからだ。過去も同様である。過去はあるが、過去は在るわけではない。いずれも私たちの前に現象してくるわけでは決してないけれども、実存しているわけではないけれども、それでもあるものとして、ア・プリオリとして私たちは捉えている。そう考えると、既存性に実存の根拠を求めることは変なようにも感じるが、それもまた反駁することが不可能である。ともすれば、過去を措定する記憶というものに確実性や正誤を求めることそれ自体がとてもナンセンスなことであるようにも思えてくるのである。そもそも、記憶というそれ自体が非存在でありながらも、ある(とされている)ものを、ことば等によって表象するときに必然的に差延は生じる。自分でも何を言っているのかよくわからなくなっているような気もするが、とことわに過ぎ去っていく過去を措定する、解釈することが絶対的に不十分であるということが意識される。過去についてもの語るということは、何をもの語っても当たっているが、何をもの語っても間違っているのである。であるからして、この作品で描かれる再現された記憶を見てもそれが正しいのかはわからない。常に懐疑の投射を行うのだ。
 そういった記憶に関する懐疑的な視点が意識の俎上に載せられることによって、常に客観的というか、一歩引いた距離から映像を解釈することができる。鑑賞者が見る映像はラストを除きそのほとんどがアニメーション映像であるため、それもまた現実から一歩引いた距離にある。そして遠いところから映像を見ている自分がフィルターを通して現前に表象してくるものを見ているということを作品の中盤で示される。その抗いようのない倒錯が示されるとき、まさしく私たちの「カメラのファインダー」が壊されるのである。なんという緻密に計算された自己破壊プログラムだろうか。人間存在が本源的に抱える矛盾というものを突きつけられる。やはりいい。記憶そのものを見ることができないことを知らしめられる。それが苦しい。
 作品の随所にある斯様な自己破壊プログラムから、暴力や戦争の記憶の問題が表面化される。暴力の記憶、あるいは喪失の記憶はいかにしてもの語ることが可能になるのか。そもそももの語ることは可能なのか。特に考えなければならないのは、人間が人間で亡くなった時の記憶だろう。ビオスを喪失した時の記憶、虐殺という「非人間的」なことが行われた時の記憶である。ビオスを喪失することは同時に忘却を強いられることであると解釈しているが、いかにしてそれに抗うか。二度の虐殺経験。アウシュヴィッツと、レバノン。最初は被害者として、次は加害者として。これは欲動の断念に伴う反復強迫か。行為主体のない暴力。暴力の行き場がない。求められる身振り。レーヴィの自死。人間の試み。人間であること。ヒトの記憶。ヒトの生。ヒトの哲学。無意識の表象作用。フロイトの夢判断。自我の脆性よ。閾に立つ。ああバートルビー。ああ人間。
トートロジーを貫く。実存してる。在る。
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