marvingay1987

マリッジ・ストーリーのmarvingay1987のレビュー・感想・評価

マリッジ・ストーリー(2019年製作の映画)
3.5
いささか飛躍的だが、連合赤軍事件を描いた山本直樹の漫画『レッド』を連想してしまった。

そこに登場するのは70年代の若者たちで、共産主義革命運動の‟不可能性”が色濃くなればなるほど、‟言葉の過剰”へとひた走る。「総括せよ!」「自己批判せよ!」。しまいには、内ゲバによる殺人へと手を染めていき、ご存知のあさま山荘へと至る。

ひるがえって、この『マリッジ・ストーリー』を観ると、セリフの多さに圧倒される。英語が分からない私としては、字幕を読むだけで必死。恐らく迫真の演技をしているであろう役者の顔は盗み見る他ないという有様。それは私の落ち度として、いずれにせよ鑑賞後に印象に残ったのは『レッド』を読んだ時と同じ、異様なまでの‟言葉の過剰さ”だった。

『レッド』における‟言葉の過剰さ”が革命運動の不可能性によって引き起こされていたのに対して、『マリッジ・ストーリー』では何の不可能性によって引き起こされていたのか?それはもちろん「恋愛」だろう。一般に「恋愛」の理想は、二人が互いに互いを敬い、性的感情を与えあい、他人に欲情することなく、結婚に至り、死ぬまでその関係を貫徹すること、と言われる(それを社会学では「ロマンティックラブ・イデオロギー」と呼ばれる)。でもそれは、共産主義革命同様、無理でしょう。

そうしたイデオロギーが不可能性にぶち当たり、末期症状に陥った時に、‟言葉の過剰さ”が噴出する。『レッド』では、公安警察に囲い込まれ、山岳アジトで殲滅戦を決意した時。『マリッジ・ストーリー』では、離婚調停において。いずれにしろ、イデオロギー(=言葉)に亀裂が走った時に、言葉によって穴埋めをしようとするのである。そして、『マリッジ・ストーリー』において最も言葉の応酬が白熱するのは法廷ではなく、二人だけの時。夫役のアダム・ドライバーは、口論の中で「お前に死んでほしい!」とまで口にし、壁を殴る。そして、『レッド』においても、前述した通り、内ゲバ殺人へと繋がっていくのである。言葉による穴埋めが難しい場合、人は暴力に身を委ねるのかもしれない。

すると極論「イデオロギー(=言葉)がいけない」という議論になるのだろうか?でも、それは無理だ。私たちはかなりの部分‟言葉”に依存する存在なのである。だからこそ、この映画では、‟言葉の過剰さ”によって生じた危機を、「相手の長所を述べた手紙」を登場させることによって‟言葉”で救済している。そこで述べられているのは「矛盾しているかもしれないが、私は彼を愛し続けるだろう」という‟言葉”。

この矛盾を前述の「ロマンティックラブ・イデオロギー」に即して言うならば・・・

尊敬していないけど愛している。
セックスしたくないけど愛している。
浮気しているけど愛している。
結婚しないけど愛している。

言葉によってイデオロギー(=言葉)を否定する。そして、そんな矛盾を抱えながらも、また言葉を紡いでいく。それしかできないのだ、ということなのかもしれない。
marvingay1987

marvingay1987