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プリズン・サークルのperipateticSのレビュー・感想・評価

プリズン・サークル(2019年製作の映画)
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加害者のもつ被害者性... 強調の仕方はほんとうに慎重にしなければならないが、どの加害者にも根源的に被害者の側面があり、養育環境や経済状況の違いによる傾向が顕著にある。部外者が加害者:被害者を二分化してえらそうに語ることすら本当に気をつけなくてはいけないのだけど

加害者、犯罪者、受刑者と言うと、極悪人を想像してしまうが、誰にでも突然当事者になる可能性はある。犯した罪の矮小化や正当化は到底許されないが、登場した人物の養育環境や犯行に至った背景を聞くと、つい社会構造の歪さをおもってしまう。単純な二項対立ではない。

「富と権力はたしかな証拠を消し去ることができる」って、今読んでる本に書いてあった。誰もが加害者たりえるのに、それを覆うことができなかった者が濃縮された結果「犯罪者」として扱われているだけ、とも言えないか。

罪次第で刑罰の内容は異なるとはいえ、事件化の初期段階で、加害者弁護人や制度を味方につけられた加害者たちや、罰金を支払うことのできた経済的な余裕がある加害者たちは、罪名を背負うことなく、または刑罰を軽くできる可能性がたかい。殊に性暴力に関して、潜在的な犯罪者たち(実際に他の犯罪に比べて圧倒的に中産階級の人が多い)が逃げおおせる社会だ。

それをふまえたとき、懲役判決により壁の中にいる「犯罪者」たちと、法の目を潜り抜けることができた、罪を罪とも認識せずにやすやすと生きている「加害者」たちの違いがわたしにはわからなかった。

たいていの格差なんて、金や権力や男性性をもった人物が、より立場の弱い人間から搾取することで、奪い奪われ回っているじゃないか。皺寄せだ。

だからと言って他人を傷つけたり、人のモノや心、命を奪うことは絶対に正当化されないし、被害者性と実際の加害行為自体は切り離さなければいけない。ただ、加害者の人格や行動ばかり問題視され吊し上げられる世の中に対しても常日頃疑問が多い。
自分の人生を客観視して、100%「傍観者」や「被害者」であると自己認識できる人って果たしているんだろうか。

自分の加害性がこわくて、「教育」なんて簡単に言えない。認知の歪みとか、愛着障害とか、精神障害とか、加害者の加害者たる理由を個人に求めて簡単にまとめることができる人をみると、ぞっとする。自分をただの傍観者とかおもって偉そうに二分化して語るやつに、わたしは一番暴力性を感じる。

自分のもつ加害性をどこまで意識して生きていけるだろう。こんなの書いたり言ったりすることですら、誰かを深く傷つけてしまうかもしれない。
でも、そうすると今度は、「じゃあ一体誰になら、語ることが許されるのだろう」という問いが沸く。少なくとも、どの視点から自分は語れるのか、語っているのか、その批判的想像力だけはずっと持ちつづけたい。

投げたブーメランがダイレクトに突き刺さる作品だった。再教育を通して誰かから与えられた言葉とは言え、作品に登場する受刑者たちは、自分の葛藤や負の感情を言い表したり、吟味できているように見えた。少なくとも、モヤモヤの存在自体は認知している

対話、語るための言葉が必要なのは、塀の外にいる世の中大半の人たちなんじゃないかと強くおもう
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