けいすぃー

ターコイズの空の下でのけいすぃーのネタバレレビュー・内容・結末

ターコイズの空の下で(2019年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

まずは雄大なモンゴルの風景と、それをシネスコで美しく捉えた技術が素晴らしい。

この映画は主人公的な存在が3人ほどいる。
オープニングイメージで登場するサブロウ、モンゴル人のアムラ、そして柳楽優弥演じるサブロウの孫タケシ。

物語が始まってしばらくすると、恐らくタケシが主人公であろうと感じ、彼に感情移入をして鑑賞を試みる。
しかしまたしばらくするとある異変に気が付く。
タケシの欲求や葛藤が全くと言って良いほど描かれていないのだ。

そしてもちろんのことながら、ともにモンゴルの荒野を進むタケシとアムラは言葉が通じない。
そのためこの物語は主要人物同士の会話がほぼ存在しない。

その中でタケシは様々な経験を通して変化をしていく。
しかし前述した通り、映画文法的な解釈では、変化する前のタケシの感情が分からないので、どう変化したのかもよく分からないのだ。

ここで僕はひとつ反省をした。
映画文法だとか、変化する前の状態だとか、実は大事ではないのかもしれない。

タケシの過去には祖父サブロウの過去を重ねてみても良いかもしれないし、何かワケがありそうなアムラを、はたまた鑑賞してる自分自身を重ねても良いかもしれない。
もしくは空白のままでも良いのかもしれない。

"いわゆる"物語的な展開で言うと、祖父の資産で自堕落な生活を送っていて、突然祖父の生き別れた娘を探すためにモンゴルに送られた主人公は不満をみせるだろう。
少なくとも鑑賞者はそのような反応を期待する。

しかしタケシは何ひとつ不満を言わず、態度が良いとは言えないが、全ての出来事に順応していく。
スーツケースが泥まみれになったとき、アムラはタケシに怒鳴るが、タケシは何も不満を垂れない。

最初はアムラやモンゴル人に対してタケシは英語で話しかけていたが、途中からそれがジェスチャーや日本語になっていく。
これはコミュニケーションの能動性としてものすごくリアルな変化で、「外国人にはとりあえず英語」という考えが日本人にはありがちだが、当然英語が伝わらない人々がいて、その人に自分の感情を最大限伝えようと思ったときには、意外にも母語を使った方が伝わるものだったりする。

モンゴル人同士の会話のシーン(アムラがトラックの交換を交渉する、警察署での電話など)も言語学的に印象的だった。
言葉はなく視線や反応だけでコミュニケーションを取っていて、その反応(相槌)のバリエーションが極めて豊富なのである。
僕はモンゴルの文化を詳しく知らないが、こういったハイコンテクストなコミュニケーションが一般的だとしたら、非常に面白い。

他にも、お産の際は1人でやるものなのかとか、シャーマンのような人物が実は若い女性だったが、それは一般的なのかとか(仮面を取ったことの作品的な意味も思慮に値する)、ホーミーのときの踊りは祭り事のような意味合いがあるのかとか、モンゴル文化について考える要素が多々あった。

ここまでくると気になるのが演出だ。
どこまでが脚本として計算されていて、どこからが俳優の技量やその場の雰囲気で出来上がったものなのだろうか。
柳楽優弥は序章での欲求や葛藤を監督に伝えられていて撮影に臨んだのか、それとも自分で想像して、昇華したものとしての演技だったのか。

噛めば噛むほど面白い映画だった。
けいすぃー

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