風さん

ミッドナイトスワンの風さんのレビュー・感想・評価

ミッドナイトスワン(2020年製作の映画)
4.7
先行上映でひと足先に観た。

まず最初に断っておくが、私は芸能人やアイドルと呼ばれている人たちに特に興味はない。作品に興味があるだけだ。
正直に告白するならアイドルなどといったものはバカにしていた。
今もそういう面が皆無だとは言わないが、草彅剛の芝居を見てそういう自分を恥じた。
顔も名前も知らない世間に乗っかって、自らの価値観を狭めていたことに気づいたからだ。
天下の名優だろうがアイドルだろうが、いいものはいいし、悪いものは悪い。
ただそれだけのことで、至極当然の話。
演者の肩書やカテゴライズ、レッテルだけで、作品を見もせずに無自覚に選り分けていた過去の愚かな自分を今は恥じ入るばかりだ。

さて、映画の話。
『ミッドナイトスワン』を単にエンターテインメント作品として楽しめるか(喜怒哀楽すべてがエンタメ要素となる)、あるいは映画の枠を超えて現実を見つめる契機となるか、それは人それぞれである。
しかしながら“力のある映画”は現実の生活、つまりは人生に入り込み、何かを変えてしまう。

『ミッドナイトスワン』は極力説明を排し、設定とスクリーンに映るものだけで勝負を挑んでくる。
渋谷慶一郎の繊細で感覚的なピアノの旋律が映像と渾然一体となり、登場人物のみならず新宿の限られた(区切られた)街並みや切り取られた貧しい部屋を際立たせ、希望と絶望にブラックライトを浴びせる。

世界の片隅に息づく小さな物語は、説明を排した美しい映像を伴って観る者の心に鋭い爪を立てる。
それは説明されないことによって起動する観覧者の想像力増幅装置のなせるわざだ。
時には乱暴に思えるほどの省略の美。
そしてその美が照らし出す人間の普遍的な哀しみ。
『ミッドナイトスワン』はそうした“意図せざる感情”が噴出してしまう怖い映画だ。

この映画を「悲しい」「切ない」「美しい」「儚い」などといった形容詞で言い表すことももちろん可能だ。
映画の感想としてそれは間違っていない。
娯楽作品として充分に面白い。

しかしながらこの作品はそれだけでは済ませていない。
綿密な取材によってそういった形容の奥に過酷な現実を仕込んでおり、それに気づくか気づかないか、そこを見るか見ないかで言葉は同じでも質量が変わってくる。
具体的な例をふたつだけ述べるならホルモン注射を打つ頻度と副作用の関係であるとか(http://kaizuka-hosp.or.jp/guidance-of-medical/gender/)性的指向と収入に関する研究動向とか(https://www.jil.go.jp/institute/discussion/2019/documents/DP19-05.pdf)である。

北野武が自作品で説明を徹底的に排除し、生のままスクリーンのこちら側に人間の持つ本質をぶん投げてきたように、内田英治もまた生の“生と死”をスクリーンから投げかけてくる。
観終わったあとなかなか席を立てない客が少なくないのは、そういった名前のついていない生の感情をどこにしまえばいいのか、ちょっとした時間が必要だからだ。

「男に消費されたら負けだからね、うちらみたいなのは」という凪沙は、だからこそ本音を隠して男に消費させているように思わせて生活の糧にするしか術がない。
それはまた一果の実の母親にも重くのしかかり、その歪んだ発露が一果に向けられる。
救いの見えない日々の暮らしは“弱き者”としての一果を無残に損ない、痛めつける。
一果の暗い目はそうした日常が永遠に続くのだろうと思わせるに充分だ。

母親との関係から言葉=コミュニケーション手段を自分の心の奥底に押し込めてしまった一果は、この映画で準主役の役割を与えられているにもかかわらず、映画がはじまってからおよそ30分以上も台詞が与えられていない。
無言のままスクリーンの中で息をひそめている。その言葉を発しない饒舌な息遣いが心に痛い。

桜田一果役を演じた新人女優の服部樹咲(みさき)はこの『ミッドナイトスワン』がデビュー作だ。
幼少の頃からバレエをやってきて受賞歴も華々しい。
この先、自身でバレエと女優をどのように位置づけるのかは知らないが、その存在感たるや凄まじい。
人には努力して手に入れられるものと、そうでないものが確かにあるのだと、この映画の服部樹咲を観て改めて思い知らされる。

13歳の新人女優・服部樹咲がこの先バレエを続けるのであれ女優を続けるのであれ(たぶん映画界は放っておかないはずだ)、先が長いであろう彼女の人生の中で、ただの一度しか経験することのできない、そしてどんなに望んでも二度と繰り返すことのできないデビュー作としての演技が『ミッドナイトスワン』には詰まっている。

“ただそこにいるだけ”で場を成立させられる役者はそう多くない。
ましてや成立するだけを通り越して、存在するだけで饒舌に何ごとかを語れる役者は稀だ。
『ミッドナイトスワン』では奇跡的にそれを体現する草彅剛と服部樹咲が対峙した。
プロデューサーや監督をはじめとするスタッフにとって、そして何より観客にとって、これは多大なる僥倖である。

役者としての草彅は(たぶん無自覚に)助走なしで一気に高みにのぼることができる天才だが、服部樹咲はまだこの先どうなるかわからない。
ローティーンから成長していく段階でどうすることもできず失われていくものはたくさんある。
『ミッドナイトスワン』における服部樹咲の存在感と、それをあらしめているものが失われないことを切に願わずにいられない。

現実に生きる人々は往々にして他人の人生を軽んじる。取るに足らないものとして扱う。
ネット上にはそういった匿名の人間が無数に溢れている。
だが、それをもってして誰かの人生が取るに足らないものとなるわけがない。
取るに足らない人生などどこにもない。

どんな外形を纏っていようが、どんな肩書を名刺に並べ立てようが、私たちは等しくたった一度の人生しか生きられない。
だが、優れた映画や書物やスポーツなどは人生を何度も味わわせてくれる。
自分が歩まなかった人生を。自分が歩むかもしれなかった人生を。
人はそれを文化と呼ぶ。
その文化が衰退すれば他人のことがわからなくなる。伝わってこなくなる。
人は誰でも他人や他人の創り出す何かと響きあって生きていくものだから。
現在の政治状況がもたらしつつある弊害として、そこのところに強い危惧感がある。
『ミッドナイトスワン』ではスクリーンの中で凪沙と一果が美しく悲しく響き合い、スクリーンを飛び出して作品と観客が響き合う。
光と影が映画を創り出し、その映画が人の心に重層かつ多層的な光と影を織りなす。
なんという幸福な映画体験であることか。

『ミッドナイトスワン』では希望の象徴として一果のバレエが大きな意味を持つが、これまでバレエを扱った映画は数多くある。
『リトル・ダンサー』『ブラック・スワン』『バレエ・カンパニー』、古いところでは『愛と喝采の日々』や『愛と哀しみのボレロ』などがすぐに思い浮かぶ。
さらにドキュメンタリー映画も加えれば数えきれないほどだ。
だが、それらはみな外国映画だ。
日本でバレエ映画というと何があるだろうか?
ないことはないと思うのだが、私にはすぐに思い浮かばない。
『Shall we ダンス?』はバレエではなくソシアルダンスだし。
そういった意味でも、また質の上でも『ミッドナイトスワン』は日本のバレエ映画としての金字塔となるだろう。
国内外で活躍しているプロのバレエダンサーでさえ絶賛しているほどだ。

また、渋谷慶一郎が紡ぎ出す音楽も特筆すべきものだ。
彼はわずか一週間でこの作品に使われているすべての楽曲(バレエレッスン時のものを除く)を制作したらしいのだが、観終わってから何日経っても、いや、時間が経てば経つほどあの繊細で時に広く時に狭く心に響くピアノの旋律が哀しみを連れてくる。
たぶん渋谷慶一郎はその気になれば音楽で人を殺せるんじゃないかと思う。
もちろんその逆に人を救うことも。

草彅剛が主演した前作『台風家族』はお蔵入りの危機に遭いながらなんとか限定公開し、今作『ミッドナイトスワン』はコロナによって撮影中断と映画館のキャパ制限に見舞われた。
どちらもビジネス的な損失は大きいだろうけど、それが作品の質や草彅の価値を損なうことにはならない。
作品の中にどうしようもない孤独の旗を立てて草彅剛が屹立している。
役者としての草彅は比類のない存在ではあるが、強いて言うならば若い頃のダスティン・ホフマンを彷彿とさせる瞬間があったりする。

『ミッドナイトスワン』公式では宣伝惹句として「世界で一番美しいラブストーリー」という言葉を置いている。
確かにラブストーリーではあるだろう。
だけど私はホームドラマの極北として『ミッドナイトスワン』を捉えた。
この映画は世界で、日本で、連綿と解体されては再構築され続けている「家族」の物語でもあるのだ。
美しくも哀しい擬似家族、母と娘の物語。
「ラブ」はその「家族」の基本であり前提である。

本当は一果の唯一の親友である桑田りん役の上野鈴華や、バレエの先生・片平実花役の真飛聖、凪沙が勤めるショークラブの洋子ママ役・田口トモロヲなどにも触れたかったのだが、少々長くなりすぎたのでやめておく。

最後にひとつ、現実の社会からこの映画を考えて客観的に触れておかなければならないことがある。
本当ならこんな映画は存在しない方がいいのだ。存在してはいけないのだ。
この映画を観て感動したとか、泣いただとか、悲しいだとか言っている状況、この映画が話題となって多くの人々に支持される状況そのものが、この映画が生で突きつけている大きな問題点なのだから。

優れた創作物というのは、それが小説であれ絵画であれ音楽であれ、そしてもちろん映画であれ、社会への鋭い批評性を帯びるものだが、この作品も製作側が意図するとしないとにかかわらず、そういった批評性が根底に横たわっている。

この作品が描いているような現実はない方がいいし、誰もこの作品に心を動かされないくらい現実とかけ離れている方が社会としては真っ当なのだ。
そこのところは社会を構成している一員としてしっかりと押さえておきたい。

私が『ミッドナイトスワン』の先行上映を観たのは9月10日だった。
これを書いている今日現在はあれから10日目になるのだが、いまだにこの作品が放つたとえようのない色の光とエネルギーがずっと我が身を照射し続けている。

完璧な作品、とは言わない。
だが「完璧」の語源となった宝の玉のような作品であることは保証する。

久しく感じていなかった映画の持つ可能性をしみじみと実感させてくれた作品だ。
映画好きとして自信をもってお薦めする。



◉2020年9月25日(金)より全国公開。

【公式サイト】
https://midnightswan-movie.com/sp/

【上映館】
https://eigakan.org/theaterpage/schedule.php?t=midswantitle



※2021年3月20日追記

本作品は2021年3月19日に発表された第44回日本アカデミー賞で、最優秀作品賞および最優秀主演男優賞を受賞した。
作品はロングランヒットとなり、公開から約半年経った現在でもまだ公開されているところがある。
風さん

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