カロン

二重のまち/交代地のうたを編むのカロンのレビュー・感想・評価

3.9
好評のレビューを観ていたので、劇場公開の機会に鑑賞。
東日本大震災を、外部の語り手が語る(のを観る)という作り。これによって震災が、私のような外部の人間にとっても自分ごとになる、という意味で、ひとつ意義のある構造をとっていると思う。

実際にこの震災は、外部の人間である私からすると、コンテンツとして参照すること、間違ってもエンタメとして消費することを忌避してしまうような、重い事件だったという感覚が強い。(だったら過去の戦争や虐殺はどうなんだ、という想いはあるが…)
ただ、地続きの土地で起きて、時間的には自身の生と重なったこの大震災の半当事者として、この震災と向き合うことになってきた、外部の我々への映画だという感覚が残った。
映画終盤、夕暮れの街で若者が物語を朗読する。物語的に非常にいい場面だと思ったが、意外とサクッと終わらせる。あくまで主題は語りの伝播であり、気持ちよく消費されるエンタメでは終わらせない。

自分の中ではより自分ごととしての意識が薄い凄惨なもの、それこそ過去の戦争や虐殺、遠い海の向こうの大震災、現在進行形で実在する社会問題についても、外部から語っていいのかも?と思わせてくれることは、大きな意義があったかも。

大学時代、震災を学習の題材に被災地に赴いたことも、必然的に思い起こされる。陸前高田と異なり、原発事故の影響が大きかった地区に赴いたので、震災の傷跡についてそこで語られるニュアンスは違ってくるが、それでも今作と同じような構造がある。特に我々、部外者にとっては。
作中と似たように、当事者の語りに耳を傾け、それを同じ生徒と共有した時間もあったが、やはり今思い返すと忘れているところも多い。それに覚えているのは、自身が生の言葉で聞いた体験ばかりだ。語りのリレーの、有意義さと貧弱さを同時に感じる。作中にもあったように、語りは100%そのままの内容で伝播するわけではない。それは対話という営みの性質上、もちろんそうだ。発話され、それが受け取られた時点で、それぞれのものは別物である。それでも、その対話に何らかの意義を見出せそうな気にしてくれる、そんな作品ではあったと思う。
大学時代のこの体験がなかったら、だいぶ鑑賞感が変わっていたかも。

当時のノートを見返したくなったが、今の住まいにはなかった。実家の机の棚だろう。今度、ちゃんとまた開いてみたいと思う。
カロン

カロン