COZY922

街の灯のCOZY922のレビュー・感想・評価

街の灯(1931年製作の映画)
3.7
【語らずして語る】
言葉の持つ力は本来大きい。だからだろうか?最近の作品は台詞に頼り過ぎているような気がする。無ければ無いで 動作や表情、動作と動作のあいだに生じる間(ま) などで 意思や感情を伝えることができるはず。そして台詞が無いゆえに観客は表情から状況を読み解き、解釈もまた無限大に広がる。そんなことを思い起こさせる映画だと思う。

言わずと知れたチャップリンの名作『街の灯』。その有名なラストシーン。目が見えるようになった娘と再会し、娘が、目の前にいる人物が恩人であると知る シーンだ。手放しでのハッピーエンドと感じている人が多数派のようだけど私にはそうは見えなかった。

目が見えなかった頃の様子は微塵も感じられず朗らかに笑いながら花屋で働く娘。チャップリンと会う直前、花屋に入ってきた立派な紳士を見て動揺し母親に「あの方が帰って来たような気がしたの」 と言う字幕が出る。彼女は今も自分に優しく尽くしてくれた「紳士」の帰りを待っている。その後にウインドウ越しに目に留まった浮浪者。娘を見てうれしそうに微笑むチャップリンに対し、娘は「この人、きっと私を好きなのよ」と笑いながら母親に話す。そして花とお金を恵んであげようとして2人は向かい合うことになり手が触れ娘は気がつくのだ。「あなたでしたのね」と。その表情は一点の曇りも無い笑顔ではなく 微かに戸惑いをたたえているように見える。

この温かな手のぬくもりは確かにあの人だ。けれど自分の想いの相手は心だけでなく見た目も地位も立派な「紳士」であってほしかった。そんな失望感にも近い気持ちと 恩人に逢えた喜びとが 入り混じって あの表情になったのではないだろうか? 目が見えていた時に見えていたものが 目が見えるようになったら見えなくなったとは思いたくないけれど、私にはそう見えてしまった。男は一途に思い続け 精一杯の愛を捧げたけれどその想いは報われない悲恋の物語なのではないかと。

物語はここで終わる。この先、2人がどうなるのかは誰も知らないままに。ハッピーエンドとも取れるし、切なくも残酷な物語という解釈もできる。言葉のみならずエンディングも描き過ぎていないからこそ名作なのだろう。この後2人が結ばれたり、逆に チャップリンがトボトボと娘の働く店の前から姿を消すシーンが描かれていたら こんな深い味わいの作品にはならなかったと思う。

物語の行く末がどうなろうとも街の灯はきっといつも2人の住む街を照らしてくれることだろう。
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