show

劇場版 アーヤと魔女のshowのネタバレレビュー・内容・結末

劇場版 アーヤと魔女(2020年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

◆「それで終わり?」の正体を考える
見終わった感想は、「あれっ、それで終わりなの?」

じゃあなんでそう思ったのか。このもやもやは何なのか、をもうちょっと考えてみた。

アーヤは天才的な「人たらし」。というか、魔女の子なんでそういう能力をもった魔女なんだろう。アーヤはその能力でもって、孤児院のみんなを自分のために動くよう仕向ける。暴力はいっさい使わず、巧みな話術のみで他人を支配していく。映画のなかで「支配」という言葉を使うわけじゃないけど、魔女だし「支配」でいいだろう。

そのあと、アーヤは魔女のベラ・ヤーガとマンドレイクに引き取られる。といっても、ベラ・ヤーガはアーヤを自分の助手としてこき使うために引き取っただけだった。それでも、アーヤはあれこれ命令されながらも、したたかに、持ち前の「能力」でもってマンドレイク、ベラ・ヤーガも手玉にとっていく。

「人たらし」で他人を支配下におくことは、僕の感覚的に「悪いこと」だと思ってしまう。だから、見ながらアーヤはいつか痛い目を見るのか、と思っていた。ところが物語は、ベラ・ヤーガとマンドレイクを手玉にとって(ついでにデーモンも支配下において)、アーヤが実質的な家の「主人」となるところで終わる。ベラ・ヤーガもマンドレイクも、アーヤにすっかり気を許して、満足そうにアーヤと暮らしている。

そして、最後に「HAPPY END」と明示される。うん、たしかに、みんな幸せだと思っている。こういう「ハッピー」があるのか・・・とも思わされる。

でも、一方でこうも思うのだ。たとえば悪徳な宗教家がいて、信者の心を支配し、騙して自分だけがうまい汁を吸っている。でも、信者は「教祖さまの役に立っている!」と盲信して、幸せだと思っている。この状態を「みんな幸せ」と言っていいのか。本人たちが良いと思っているからいいだろう、と言い切ってしまっていいのか。アーヤのやっていることは、この悪徳宗教家となにが違うのか。

映画のキャッチコピーのひとつは「私のどこが、ダメですか?」だ。僕は「いや、人の心を支配しちゃダメでしょ」と思う。そう思うと、もしかしたら、このキャッチコピーは、人の心を支配することが、人間の尊厳にかかわっているということを意識したうえでつけたのかもしれない。

ただそうだとしても、ストーリー上その問題提起はすごくわかりにくい。単にアーヤがしたたかでずる賢い、でもかわいいから許す、みたいな話にふつうは受け止められてしまうのじゃないか。あるいは、そういうアーヤが嫌いで、この映画は面白くない、みたいな次元で映画を見られてしまうんじゃないか。

と、ここまで書いて、別の考えもよぎる。この映画は、人間じゃなくて魔女の話なんだから、やるかやられるか、支配しなければ虐げられるだけの世界、という話なのかもしれない。人間でなく魔女という設定になっているのは、そう考えるとうまい設定だとも思う。この「どうとでも取れる妙」は、面白いと思う。でも、やっぱりわかりにくくないかなあ・・・。
show

show