青眼の白龍

シャドウ・オブ・ヴァンパイアの青眼の白龍のレビュー・感想・評価

4.0
 F・W=ムルナウによるドイツ表現主義を代表する恐怖映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)をモチーフにしたサスペンスホラー。映画マニアの間でまことしやかに囁かれていた都市伝説が設定に活かされている。監督は『サスペクト・ゼロ』(2004)のE・エリアス・マーヒッジ。主演は怪優ジョン・マルコヴィッチ、準主役のウィレム・デフォーが吸血鬼を見事に演じる。なお、ニコラス・ケイジが申し出を快諾し、プロデューサーのひとりとして参加している。


●あらすじ
 舞台は1922年のドイツ。当時、国内最大の映画会社であったUFAで活躍していた映画監督F・W=ムルナウは、新作『吸血鬼ノスフェラトゥ』の製作に忙殺されていた。グレタ・シュレーダーとグスタフ・フォン・ヴァンゲンハイム演じる《エレンとフッター》の冒頭シーンを取り終えたスタッフたちは、次なる撮影地のチェコへと発つ。しかし、肝心の主演俳優・不死者(ノスフェラトゥ)役のマックス・シュレックは一向に姿を現さない。不安に感じるプロデューサー兼美術担当のアルビン・グラウや俳優たちにも、ムルナウは「彼は舞台俳優で役に没頭しているため、我々の前には現れない。すでにロケ地で待機しているから心配ない」と告げるだけだった。主演のマックスが不在のまま撮影は続く。宿屋のシーンを撮り終えた彼らは、いよいよ吸血鬼とフッターが初めて邂逅する場面を古城で撮影することに。そこでようやくノスフェラトゥ役のマックスが登場するのだが、そのあまりに奇怪な風貌に一同は驚愕する。メイクとは思えない鋭い爪に、化物のように禿げあがった頭部。黒衣を纏った大柄な身体、そして全身から漂ってくる異様な雰囲気……呆気に取られながらもマックスを主演に据えて撮影はスタートするが、役に没頭しすぎたノスフェラトゥはカメラマンに噛みつき、現場を大混乱に陥れてしまう。やがて代役のカメラマンを雇い、船のシーンを撮り終えて、いよいよ撮影も山場を迎える。だが、ロケ地であるヘルゴラント島へ入ったはいいが、ラストシーンの撮影が近づくにつれてムルナウの様子が狂い始める。ただならぬ事態を察知したアルビンと脚本家のヘンリク・ガリーンに詰問されたムルナウは、驚くべき真実を語り始めた。マックス・シュレックは偶然ムルナウによって発見された、本物の吸血鬼だったのである。


●レビュー
 本作の魅力といえば、やはり「古典恐怖映画の俳優が、本物の吸血鬼だった」という意外な設定だろう。本家『吸血鬼ノスフェラトゥ』でペストを運ぶ不死者を演じた俳優マックス・シュレックに関しては、これまで様々な憶測が流れてきた。その異様な風貌に、謎の多い素性……彼は五十本近い映画に出演しているのだが、やはりノスフェラトゥの印象が強烈すぎることもあって、今日マックスの名が知られているのはムルナウ映画の功績とまでいわれている(不死者以外の役柄を演じたマックスはごく平凡な俳優にすぎなかったようだ)。上映された当初から大勢の映画ファンは彼を指して「本物の吸血鬼なのでは?」とジョーク交じりに話していたそうだが、まさか二十一世紀の目前になってマックス本人を題材(?)にした恐怖映画が公開されるとは、誰も予想し得なかっただろう。脚本家のスティーヴン・カッツにより練りあげられた奇抜なアイディアは、大勢の実力派俳優によって一段と狂気を増したように見える。中でも、名優ジョン・マルコヴィッチが演じたF・W=ムルナウによって、その狂気はいっそう際立っている。はっきりいって、本作は恐怖映画としてはたいして評価される作品ではない。もちろん、主演女優のグレタが毒牙にかけられる場面や、ひとりずつ撮影スルーが殺害されていく過程などは紛れもなく恐怖映画の要素を含んでいるが、劇中に登場する吸血鬼自体(その風貌から滲みでる迫力を除けば)に恐ろしさを感じることはない。モデルになっている俳優マックス・シュレックについて事前に情報を得てから鑑賞したこともあるだろうが、それよりもむしろ、本作が他の恐怖映画とは明らかに異なる《主人公と敵対者》の構図を打ちだしていることに起因するだろう。もっとも、製作側もこの映画を単なるホラージャンルの作品として仕上げるつもりは毛頭なかったはずだ。四百年間も生き続けたノスフェラトゥがブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』を読んで苦言を呈する場面など、思わずニヤリとしてしまうコミカルな描写も多い。
 さて、本作で描かれている主人公と敵対者の関係について考察していこう。通常、多くの恐怖映画では《観客が感情移入する主人公》に害をなすモンスターが敵対者として位置づけられる。勿論、ムルナウ版においても、トッド・ブラウニング監督の『魔人ドラキュラ』(1931)でも、この構図は原則として守られている(余談だが1931年版の映画では二枚目俳優ベラ・ルゴシが荘厳なムードを漂わせる貴族的ドラキュラを熱演し、後世のドラキュラ像に多大な影響を与えた。また、フランシス・フォード・コッポラ監督による『ドラキュラ』(1992)ではゲイリー・オールドマンが悲劇の怪物を演じ話題になった。後者ではドラキュラは単なるフリークスではなく、愛する者の自殺に絶望し哀れな末路を辿ることになった男という、悲劇の伯爵としての側面が強調されている)しかし、この『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』の主人公F・W=ムルナウという映画人に、観客の大半は決して感情移入などできない。

 映画を観れば理由は容易に想像がつくだろう。作中においてムルナウ自身、あらゆる犠牲を強いてでも自らの映画を完成させようとする狂人として描かれているからである。その様子は彼の台詞の端々から伝わってくる。たとえばマックスがカメラマンに襲いかかった直後、彼は契約を破った贋俳優を激しく叱咤するが、その中で「なぜカメラマンを殺した! 書記でよかったのに!」「いいだろう、脚本家はくれてやる!」と吐き散らす。また、彼らが結んだ契約というのも『マックスが役者として撮影に協力する見返りとして、主演女優のグレタ・シュレーダーを捧げる』という常軌を逸したものだった。ムルナウは天才であるがゆえに《非現実》すら利用する。多くの吸血鬼映画と異なり、この作品では吸血鬼と対立する人物は狂人である。彼は自身の映画のためだけに働き、自らが蒔いた種から撮影クルーを守ったり正義感に絆されたりはしない。彼は無関係な多くの人々を犠牲にし、何かに取り憑かれたように映画を撮り続ける。全ては映画に愛をそそぐがゆえに。本作はラストシーンで壮絶な結末を迎える。主演女優もカメラマンも、大勢がマックスによって襲われてゆく中、地獄のごとき様相と化したセットで淡々と撮影を続けるムルナウ。これでは、どちらが非人間的かわからなくなってしまう。やがて光を浴びてしまったマックスにも死が訪れるのだが、その様子を撮影すべくカメラを回し続けるムルナウの表情は、芥川龍之介の『地獄変』に登場する絵仏師良秀を彷彿とさせるものだった。芸術に命すら捧げることを厭わない天才と、決して人間と交わることのできない不死者。大衆社会から剥離した存在という共通項を持つ両者は、利害を超えた奇妙な関係で結ばれていたのかもしれない。


 この作品には、冒頭で流れる《エレンとフッター》のシーンや《宿屋を再現したカット》、他にも城内でフッターとオルロック伯爵が不動産契約を結ぶ場面など『吸血鬼ノスフェラトゥ』と全く同じ構図の映像が度々再現されている。他にもマックスがグレタの寝室目指して階段をのぼるシーンがあったり、棺桶から直角に起きあがる場面があったりと、映画マニアご満悦のオマージュが散りばめられている。やはり本作は恐怖映画というより、ファンサービス精神にあふれたパロディ映画と呼んだほうがよいだろう。『吸血鬼ノスフェラトゥ』のファンには是非ともお薦めしたい作品だが、恐怖シーンが少なかったりラストが難解だったり、一般の方に薦めるとなると少し厳しいかもしれない。

 最後に、DVD版の特典ではメイキング映像が収録されているのだが、少し気になる点があったので一つ。出演俳優や関係者のインタビューで、グスタフ・フォン・ヴァンゲンハイム役のエディ・イザードが「グスタフの演技は仰々し過ぎる。大根役者だ」といった旨の発言をしているが、当時のドイツ表現主義においては監督や演出家から意図的にオーバーな演技を求められたという話もある。たとえば『カリガリ博士』(1920)においても、監督のロベルト・ヴィーネから主演のヴェルナー・クラウスに対して実際に仰々しい演技が依頼された。グスタフがムルナウから大袈裟な演技を求められていたかどうかは定かでないが、オーバーアクションも演出上の工夫だったのかもしれない(実際にグスタフ演じるフッターを観れば、大袈裟すぎる気がしないでもないが……)。ともあれ、エディは作中で仰々しいアクションを見事に真似て演じているのだから素晴らしい。『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』には製作者だけでなく、俳優たちからも偉大な映画監督ムルナウや彼の作品、怪優マックス・シュレックへの愛を感じられた。もし『吸血鬼ノスフェラトゥ』を観るのなら、ファンディスクだと思って是非とも一緒に観てもらいたい。

●備考
※1 吸血鬼といえばブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』が有名であり、当初はムルナウもストーカーの小説を原作に映画を製作するつもりだった。しかし、制作会社が版権元から映像化の権利を得られなかったことで、ムルナウは原作の脚色を余儀なくされた(トランシルバニアに住むドラキュラ伯爵がチェコスロバキアのオルロック伯爵へ、ジョナサン・ハーカーがフッター、そしてミナ・ハーカーがエレンへと変更されている。小説のエイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授にあたる人物も脇役に甘んじている)なお、後にブラム・ストーカーの遺族であるフローレンス夫人がムルナウに対して著作権侵害で訴訟を起こしている。結果、ムルナウは三年を費やした裁判で敗訴。映画公開には中止命令が出され、現存する全てのフィルムを破棄するようにとの指示も受けた。破棄を逃れたフィルムが残っていたからよかったが、もし本当に破棄されていたら『吸血鬼ノスフェラトゥ』および、多くの吸血鬼映画は存在していなかっただろう。

 注2 1979年にはリメイク版としてヴェルナー・ヘルツォーク監督によるリメイクも製作されている。こちらも有名な作品なので、一度ご覧になっていただきたい。主演はクラウス・キンスキー。


(以前書いた個人ブログより修正・転載)