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映画大好きポンポさんのnobuoのレビュー・感想・評価

映画大好きポンポさん(2021年製作の映画)
2.2
まず言いたいのですが、「本作の尺が90分である件が粋」だとは一切感じられませんでした。何故なら作中でジーン君が人生と作品を切り詰めた魂の90分と、短めの原作漫画を強引に90分に引き伸ばした本作とでは、時間の価値・重み・本質が全く違うはずです。よって“90分”という言葉に踊らされるのは危険かつ早計ではないかと。

さて、filmarksを始めて約6年、歴代最長のレビューとなりました。映像面の評価以外は辛辣な表現ばかり続きますが、一映画ファン・創作活動経験者の意見として受け止めて頂けたら幸いです。自分自身が「映画大好き」だからこそ、俺は本作が許せない。本作に「映画愛」「創作愛」「クリエイターを心の底から応援する熱意」は存在するのか?そう疑念を抱きながら感想を綴りました。


……本作は世評が凄く高い「ものづくりアニメ」だそうです。皆様の絶賛意見にも納得出来る部分はあるのですが、はっきり言って怒り狂う人が出るレベルの大問題作じゃないでしょうか?
少なくとも俺は本作が訴える=説教を垂れてくるメッセージに対して好感情を抱けず、「えっ、“ものづくり”ってそんな腐った思想を良しとするの!?」と疑問を感じずにはいられません。基本的なストーリーラインや遊び心に溢れた映像表現は素晴らしかったため、そういった美点や本作のファンの皆様を貶すつもりは一切ございません。

そもそも、原作漫画に対して以前から首を傾げざるをえない部分があり...。映画化にあたりフォローが成されていればいいなと期待していましたが、結果的にそれらの疑問点が更に浮き彫りになり、非常に悪い後味が残ってしまいました。

「満たされた人間はクリエイターになれない」

「2時間以上の集中を観客に求めるのは現代の娯楽として優しくない」(「映画は90分以下であるべき」)

非常に引っかかったこの二点の台詞・思想について、以下よりいつもの調子でツッコミ入れます…。





…それではまずツッコミの前に、“素晴らしい!”と感嘆した魅力的な点を述べたい。
青年が悩みを乗り越え成長するサクセスストーリーは素直に気持ちが良い。この素晴らしいストーリーが有ったからこそ、きっと映画化も果たされたのだろう。気合いと遊び心に溢れたカットの繋ぎも楽しく、次はどんな場転が見れるのか?とワクワクさせられた。構図に拘ったアニメ作品は多々あれど、ここまで繋ぎ方に拘ったアニメ作品を俺は観たことがない。素直に新鮮だった。
原作漫画には登場していないオリジナルキャラクター:アラン君の追加エピソードも上手く機能しており、「ものづくりモノ」作品のキモとなる重大要素──“一人の強大な情熱が周囲に波及する”に華を添えている。制作資金集めにクラウドファンディングを用いるのも、非常に現代的な解決策だ。


そんな本作は公式サイトのキャッチフレーズ通り、「夢と未来をつかもうとするすべての人に贈る、青春ものづくりフィルム」になっているのだろうか?
残念ながら、俺はそのように受け止められなかった。


さて、その理由について述べる。まず一点目、「満たされた人間はクリエイターになれない」問題について。
これはポンポさん自身の思想か、或いは原作者の思想か、それを踏襲した映画脚本家の思想かはわからない(フィクション鑑賞の際には、必ずしもキャラクターの思想=作家の思想とは限らないことに留意している)。
劇中の序盤、ポンポさんに自分を見出した理由を問うジーン君。それに対するポンポさんの回答は「スタッフの中でもダントツで目に光が無かったから」。そして、このような台詞がイメージ映像付きで断言される。


「満たされた人間はクリエイターになれない」


「満たされた人間はモノの考え方が浅くなる」


「幸福は創造の敵。彼ら(意訳:ジーン君以外の満たされた目をしたスタッフ大多数)にクリエイターの資格なし」


※“満たされる”“幸福”の定義は様々あると思われるが、作中においては友人関係・異性関係・スポーツといった所謂“パブリックイメージとしての青春時代を謳歌できていること”と定義されていた。言い換えれば“満たされていない人=青春コンプレックスを持っている人”といった所だろうか。



これは自信のないジーン君を鼓舞するための口八丁だったのかもしれない。そもそも、原作漫画では半ばギャグ的に処理されていた場面だ。とはいえ、公式サイトのキービジュアル右側にしっかり“幸福は最大の敵──”と描写されていることから、口八丁の線は無いだろう。よって、これは明確に作品が発していたメッセージ・テーマだと俺は解釈した。

…ちょっと待ってほしい。鬱屈は表現の源となりうる。それ自体は間違いない、と思う。
一方、表現欲、そして表現力を生み出すのは負の感情だけではない筈だ。純粋な好奇心。モノやヒトに対する愛情。そういった正の感情から産まれた作品だって、世の中には無数に存在する。そもそも「映画大好きポンポさん」という作品自体、原作者の“映画愛”や“創作愛”という正の感情の産物ではないのか?それに恵まれた環境で育ち、恋人や友人達に囲まれ、成功体験を積んだ人間だって、クリエイターを目指して良い筈だ。キャッチフレーズで述べられた“夢と未来をつかもうとする人”とは、決して満たされない青春を送れなかった人に限らないだろう。

例えば、これは俺の個人的な話。
俺は大学時代に一作だけ演劇の脚本を書き、それを上演するために仲間を募って公演を企画した経験がある。しかし、その熱意は本作で“クリエイター資格”として語られた“満たされなさ”“社会と切り離された精神世界の広さ”とは全く違うベクトルから湧き上がっていた。
「自分で想像・創造した物語を具現化したい」。そんな純粋な好奇心と衝動に突き動かされ、俺は一心不乱に脚本を執筆し、公演成功の為にあらゆる手を尽くしたつもりだ。勿論楽しさと並行してストレスが襲いかかり、公演終了時に俺の体重は40kg代に突入していた(確か元々53kg)。

当時、俺は比較的充実した学生生活を送れていた。今でも交流が続いている素晴らしい仲間に出逢えた。高校生の時点でモテ体験も経験済み。講義も楽しく学べていた。バイトをせずとも生活できる金銭的・時間的余裕があった。無論過去から続く悩みやコンプレックスだって持ち合わせていたが、そういったぬかるみに足を取られない程の幸福感を抱いて生きていけていた。俺が人生史上最高に創作意欲が沸いたのは、そんな恵まれた時期だった。
自分が満たされていたからこそ、俺は雑念を完全に排したストレスフリーの境地で内面=妄想の世界へトリップすることができ、存分に筆を走らせることができたのだと思う。

自分は自分、他人は他人。事実は事実。フィクションはフィクション。考え方は異なって当然。
それに、自分の思いが作品の主人公の主張と違うから気に入らない!なんて幼稚な思考は持っていないつもりだ。
しかし、本作が主張する上記のメッセージが仮に“世界の真理”だとしたら...。俺は世界に向けて雨泥を投げ付けながら、思いっきり叫んでやりたい。



“ものづくりの世界”には極端で過激な選民思想が蔓延っており、“満たされた”人間を排斥・全否定し差別することで成立しているならば、そんな理不尽な世界なんぞクソ喰らえ。



…と。




ただこれは因果関係の問題で、「クリエイターを目指す人ならば、表面的に恵まれていても実は鬱屈した内面を抱えている」との言い換えが出来なくもない。「鬱屈していない人なんかいない。だからこそ、人は誰でもものづくりの資格がある。クリエイターの仲間入りができる。」こちらの見方ならば非常に納得できる。行間を読みまくって好意的に捉えれば、ポンポさん・原作者・劇場版製作者も、そういったニュアンスのメッセージを伝えたかったのかもしれない。

例えば祖父のコネを受け継いで映画製作を行い、現場で明るく傍若無人に振る舞うポンポさん。きっと彼女には彼女なりの苦労や苦悩があった筈だ。終盤で語られる「実は一度も映画鑑賞で感動したことがない」という発言も、ある種の鬱屈から生まれたものもしれない。
そういった“一見光の側にいるクリエイター”の陰の側面がもう少し強調されていたならば、俺が本作から受けた傲慢な印象は無くなったはずだ。
しかし、こうした言い換えは少なくとも作品上では成されない。第一、上記の台詞はジーン君以外の「満たされた目をした若手スタッフ」を露骨かつ明確に卑下して語られた言葉なので、残念ながらこちらのニュアンスは含まれていないのだろう。ああ、本当に残念だ。



さて二点目、「2時間以上の集中を〜」問題について。劇中、ポンポさんはしたり顔でこのように語る。

「2時間以上の集中を観客に求めるのは、現代の娯楽として優しくない」

うん、わかる。わかるよ。凄くわかる。ポンポさんが語るように、90分程度の作品はスッキリ観れて楽しい。「オーバーザトップ」とか「ロッキー4」とか大好きだよ。劇場では120分を超えたあたりからトイレに行きたくなる。
それに、昨今の若者には短めの動画が流行っているとも聞く。“ファスト映画”や“映画名シーン切り抜き”という名の腐り切った違法動画が流行っている嘆かわしい現状もある。「長尺は現代の娯楽として優しくない」。そうかもしれない。
だが作品が主張する「映画は90分以下でなくてはならない。そうでなければ観客は着いてこれない」という考えは、一見すると観客の立場になったようで、観客(或いは消費者)を馬鹿にし、下に見た考えではないか…?

では、昨今の劇場公開娯楽作が短尺化傾向にあるか?と問われると、それは否。
例えば世界的大ヒットを記録した「アベンジャーズ:エンドゲーム」(181分)。あの作品を90分で語り切ることは不可能だろう。あれは約三時間もの長さがあってこそ語られうる壮大なドラマであり、冗長にならず観客が飽きないように工夫を凝らした展開もなされている。実際、世界中の観客もそれに不平不満を言わず、しっかり着いて来ていた筈。娯楽映画シリーズ金字塔の最新作「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」なども、シリーズ最長時間の142分だった(こちらは少々冗長だったが)。国内の大作の例を挙げれば、「シン・エヴァンゲリオン」が155分。トイレタイムさえ気にしなければ、もっと長く物語世界に浸りたいとさえ思った程だ。
「ポンポさん」原作執筆の時点ではこれらの作品は上映されていなかったとはいえ、劇場版の公開は2021年。なのでこうした潮流に対する原作へのフォロー、或いは思い切った批判は絶対に必要だった。

また、長尺だからこそ味わえる、長尺でしか味わえない感動もある。近年の作品ではないが、「愛のむきだし」(237分)は長く重たい展開が長時間続くからこそ「頼む!主人公よ早く報われてくれ!幸せになってくれ!」との思いが募り、主人公の片思いが想像もし得ない形で成就するラストシーンのカタルシスがより強まる。90分の尺で「愛のむきだし」が成立したとしても、それは決して名作になり得なかっただろう。
短い尺で面白い映画は沢山ある。だが、それと「映画は90分以内であるべき」という考えを結び付けるのは早計で、ある種の思考停止ではないか。

残念ながら「3時間でも4時間でも長く映画を観ていたい」というジーン君の反論は、「これだから映画バカは!」というポンポさんの台詞で一蹴されてしまう。
いや、その言葉に対する更なる反論シーンは絶対必要だろ!ジーン君よ、あんた「タクシードライバー」好きなんだろ!?90分の「タクシードライバー」なんて有り得ないだろ!?俺だって「ヒート(171分)は長過ぎてダメ」とか言われたらブチギレるよ!!

このポンポさんが主張する“90分理論”、せめて原作の台詞に加えて何かしらの根拠が足されていればよかった。
例えばプロデューサー目線として、「シアターの回転率が高くなるから、より沢山の人に鑑賞してもらえるし劇場からも有り難がられる」とか。幼少期のポンポさんの経験に立脚するならば、「90分以上も集中力が続かず、辛い思いをしながら家族付き合いで映画を観ていた過去の自分のような子どもにも楽しんでもらいたい」といった風な。こうした理屈のプラスアルファが一点でもあるだけで、正しいかどうかは別として、納得具合が大幅に上がった。

そもそもポンポさんよ、90分の尺に絶対収まりきらない物語の脚本を書くなよ!とも思う。ポンポさん自身が非常に尺に拘る人なら、そこを考慮せずに脚本書くのは根本的におかしくないか?“ホン読み”の段階で90分を大幅超過する事はわかりきっている筈なのに。どうかしてるよ。いや、実際の映画製作もそういうモノなのかも知れないけれどさ。


…さて、「映画大好きポンポさん」で語られたこれらのメッセージは、確かに正しいのかもしれない。だが、正解はその一つだけじゃない筈。
表現に必要な資格とは何か?何かを産み出す原動力とは何か?それらに普遍的な正解は存在するのか?「映画大好きポンポさん」は、俺にそういった様々なことを突き付け考えさせてくれた、意義深い作品だった…と思いたい。


長文にお付き合い頂き、ありがとうございました。映像表現に関しては本当に大満足なので、演出さん(宮崎駿・富野由悠季両名の元で働いた方だそうで)の次回作に期待しています。
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