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クエシパン ~ 私たちの時代のakqnyのレビュー・感想・評価

3.7
カナダのケベック州、セティル。街の5分の1くらいの面積がウアシャという先住民居留地の街で暮らす二人の幼馴染。互いに性格も暮らしも違う二人は、成長するにつれ民族というしがらみのなかでもがき、歯車が狂っていく。

映画の中でさらっと出てくるが、カナダは教育においてディスカッションを徹底して重視しているのがすごい。だれもが自分の意見をその場で伝える練習を幼い頃からしている。
ミクアンの彼氏となる白人のフランシスも、ミクアンの高校の先生も、丁寧に言葉を選びながら接しているのが印象的で、小さな街の社会で一定水準まで理解が進んでいるからか、また、国家として先住民保護に熱心に取り組んでいるからか、この映画ではアメリカ映画で描かれるほどの強烈な差別感情は出てこない。

それでも、その「あからさまな尊重してますよアピール」というか、ある種の慇懃無礼さがカナダの縮図のような気がする。
多様性を保つことを免罪符として、マジョリティの白人は自らの立場を正当化しているようにも思えたし、またマイノリティのインヌの人たちも、マイノリティである立場が理由にできてしまい得るのも、そうした人権や多様性、環境意識で先進国とされる国の現実なのかもしれない。

白人のフランシスが、ミクアンの家族に溶け込めないシーン。彼女は好きだけど、でも本質的なところでどうしても分かり合えない。それが彼女のせいでも自分のせいでもない部分から生まれてしまう環境がこの世界であることは、これからの世の中本当にたくさん見えるようになるんだろうな。。



それにしてもウアシャという地区をGoogle Mapで検索してみると、明らかに後から寄せ集めたとも言えるような街の片隅にある。約1.5km×500mくらいの面積で、現実の街ではセティルの街に溶け込むようにしてあるウアシャ地区に境界はないのかもしれないが、地図上にウアシャ・インディアン・居留地と書かれた端っこの地区はなんとも異質。「自由とは奪われて初めて気づくことができる」とスピーチで述べていたが、まさに自由とは自由であるものから発せられる言葉ではなく、制約を受けているものが渇望し発する言葉であろう。
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