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リバー・ランズ・スルー・イットのcinemaiquotのレビュー・感想・評価

4.0
ある家族の物語と美しい自然の姿が溶け合い、フライフィッシングという人間の営みのリズムで、この映画がラストの敬虔な信仰告白に導かれる時、信仰者は静かで深い感動に包まれる。

"川にある岩は大昔に堆積した砂を雨が固めてできたものだ。しかしその下には神の言葉が横たわっている。"

これが冒頭で父の言葉として引用される。

神の言葉によってこの世界は創造されたという信仰だ。

映画は牧師の家に育った二人の息子の話が中心になっている。兄は優秀で、弟は頑固だが内に秘めた強さがある。しかし牧師の家に育ちながら二人ともがそろっていわゆる「悪ガキ」で、成長しても酒をあおったりいかがわしい場所へ出入りしたり、あまりお行儀はよくない。禁酒法時代のアメリカである。
ところが厳格な父の姿が描かれる場面は稀で、むしろ心配はしながらも、もはや大人である彼らを見守る姿がそこにある。

弟が無惨に殺される前に、父と息子ふたりでフライフィッシングに出かける場面がある。兄がシカゴ大学に職を得たことを家族に知らせた日だ。いまや賭博で借金を作り、問題を抱えた弟息子は、複雑な表情を浮かべながらも兄を祝福する。その弟が兄や父を超えて技を磨いたフライフィッシングで大物を釣り上げ、その姿を兄はこう表現する。そこにあったのは完成された美そのものだった。そこはいつもの川ではなく、芸術品のような弟はこの世を超えた空間に立っていた、と。
弟は神の創り給うた類まれなく美しい存在なのだ。岩が、その存在の下に神の言葉を持つように、弟もまた神の言葉によって創られしものなのだ。

直後に、弟の死が告げられる場面が続く。衝撃を受け言葉を失った母、弟の死について何か他に知っていることは、と尋ねる父。

時間が経ち、父は最後の説教で語る。助けたくても、相手がその助けを拒むこともある。そんなとき私たちに何ができるだろう。しかし私たちには理屈抜きに愛するということができるのだ、と。
父はずっと、理屈抜きで兄弟のことを愛してきたのだ。見守ることしかできなくても。

ラストでは年老いた兄がひとりフライフィッシングをする場面とモノローグで閉じられる。
既に愛した妻もこの世にない。

しかしこの映画は単に失われたもの去った者たちへの郷愁や感傷に浸って終わるのではない、兄の姿、魂が谷間の夕べのなかで風景と溶け合うとき、そこに流れる川はもはやこの世のものではない。いつか信者がその中に入れられる天の都の川。黙示録に描かれる生命の川なのだ。そこで再び彼らは相まみえることだろう。

「私は川のとりこだ」

彼が最後にそう語るのは、彼がそこであらゆることを希望のうちに想うことができるからだろう。

深い余韻を残す映画だ。たとえ信者ではなくても、この映画の語ることに注意深く耳を澄ませば、すべてが滅びゆくこの世から、永遠の世界へと思いを馳せることができるかもしれないと思う。
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