脳内金魚

マイスモールランドの脳内金魚のネタバレレビュー・内容・結末

マイスモールランド(2022年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

 もう何回か見たい。てか見に行く。取り合えず一番のクソは無自覚に父の命をサーリャに背負わせた弁護士だよなって。

 タイトルのランドとはどういう意味だろうと思った。語義そのものだったら「土地・国土・地面」を意味する。単なる今住んでいる場所か、はたまた国か。冒頭の説明を考えると、(自分の住まう)国と考えるのが一番しっくりくるか。


 話は日本に住むクルド人一家のお話。母は亡く、父と子供三人。物語中で彼らの母国はどこなのか、明確には明かされない。劇中では、冒頭に説明があったように

・今住んでいるところの言葉(日本語)

・かつて住んでいたところの言葉(母国での公用語?)

・失われた民族の言葉(クルド語)

の三つが出てくる。従って彼らが話している外国語が分かれば分かる作りなのかもしれない。(パンフは買ったがあえて未読。これ書いてから読むつもり)あと、劇中の若い世代はどうやらクルド語は話せないようだ。また、主人公の弟妹たちはかつての母語すら話せず、完全なる日本語話者である。設定では長女(主人公=サーリャ)のみ話せる。


 一番の話の柱は移民(恐らく法律的な厳密な意味での移民ではないが便宜上こう言う)としての彼らのアイデンティティの話である。

第二の柱がヤングケアラーなのかなと私は思った。(マジで今流行りなのかね?最近多くない?と個人的には思ったけど、厳密に増えているのか分からん)

第三の柱がサーリャの恋愛。私はあまり恋愛とはとらなかったけどね。


 劇中の時間軸は、恐らくサーリャが5歳までは母国にいる。日本で言う小学校に入る年齢で日本に来たようだ。で、高二から高三にかけての物語。(映画序盤での小学校卒後5年との台詞、半ばに大学推薦云々の描写があったので)

 自分の父親含め周りのクルド人は毎日真面目に働きつつ、つましく生活している。民族の風習習慣大切にしつつ、細かな問題はあれど日本社会に馴染もうとしている。サーリャはじめ子供達も日本社会に馴染んでいる。現に弟妹たちにとっての母語は日本語。父から教わる父の母語は外国語でしかない。生活習慣だって日本寄りだ。

 対して、姉サーリャにとっては日本語こそ外国語だ。小学校入学当時、日本語は話せず苦労して話せるようになった。そとではクルドの習慣をみせることはないが、家のなかはクルドの習慣で溢れている。父の意向とは言え、サーリャ自身も覚えているからこそ父のその言動を尊重するのだろう。彼女自身も身に付いた習慣という点もあるのかもしれない。高二だったら5、6歳当時のことはものによってははっきりと覚えている年齢だろうし。

 この兄弟間のギャップを見事に表したのが一家でラーメンを食べるシーン。父が弟妹に音を立てて食べるなと注意するのに対して、妹が反発する。これは妹が中学生という反抗期真っ只中であろう年齢のせいもあるかも。対して小学校の恐らく低学年の弟は、単に疑問としてなぜ?と。それを見たサーリャは音を立てずに食べてみせ、「こっちの方がおいしいよ」と言ってみせる。渋々従う妹、両方試して無邪気にどっちもおいしいと笑う弟。このシーンを見て、この一家におけるサーリャの立ち位置が見事に表されているなと思った。父のクルドとしてのアイデンティティを守りたいと言う気持ちも、自分は日本人だと思う妹の気持ちもサーリャは分かっているのだ。なぜならサーリャ自身も日本に片寄りつつあるから。かつての母国を覚えている、また母国を愛している父を見て育ったサーリャと全く覚えていない弟妹。自分は日本人だ、クルドなんて知らないと簡単に反発できるほど、サーリャは弟妹ほど幼くはない。ああ、この子はこうして一家の均衡を保ってきたのだなと思った。

 また、母親不在の一家で母親的役割を担った彼女は、精神的に早く大人にならざるを得なかった。実際、彼女はコミュニティの日本語に不自由な大人たちの世話をしている。正しくヤングケアラーだ。もちろん、父や世話になっているコミュニティを支えなければと言う気持ちもあっただろう。現に父に内緒で部活を辞め、将来の大学の学費を稼ぐためにバイトをしている。

 そんな中の難民不認定。在留資格のなくなった彼らは日本国内での行動が制限される。就労不可、許可のない県を跨ぐ移動は不可など。かと言って彼らに対する公的支援はない。働けず支援もないとなると、実質日本では生きていけない。(一応即刻退去ではなさそう?)え?これどうするの?詰んだよね?で、お父さん、不法就労となり入管に収容。え?弁護士先生何とか頑張るって言ってるけど、その間この子たちどうすんの?当然サーリャもバイト出来ないし(してるけど)高校生のバイトくらいじゃ弟妹育てらんないよね?と思ったらまさかのパパ活。あぁ、何て言うか所謂ホワイトカラーの仕事就けないと女の子=風俗、男=反社しか道はないのか…。(この辺りは東京BABYLONのsmileを思い出した。あの話は出稼ぎに来た外国人女性が結局は風俗で低賃金で働かされる話だ)けれど、最後の最後で拒否したサーリャに、クソロリ男が「日本から出てけ」って叫ぶ。でも、サーリャにとってもはや母国は日本だ。それなのにどこに行けというのか?それなのに、バイト先では日本語上手ねとかお人形さんみたいにきれいねとか言われ、友達も悪気なく外国人(作中では恐らくわざと「外人」と言ってると思われる。外人って差別用語なんだってね)いいねと言われる。自分はもう日本が母国だけれど、無自覚に悪意なく線引きされる。あなたは外人で私たちとは違うと。日本語上手ねと言う言葉も、相手を下に見ているからこその台詞だ。かつて、日本チームを応援したくてもそれを言えなかった。かといって、クルドと言う国はない。適当に答えたドイツと言う答えでドイツ人なんだと思われた。これは、所詮日本人には西洋人の区別はつかないって証左だろう。(逆も然りなのだが)ドイツ人なんてかっこいいと言われても、明らかに「日本人」と異なる容姿で区別される。悪いことをしてなくても、職質される。当事者にとっては何もいいことなんてない。それがサーリャの本音では。キレイと言われたところで、例えそれがどんなに耳障りの言い言葉でもそれは評価の言葉以外のなにものでもない。自分は常に評価され続けるのだ。

 日本人とは?見かけ?血筋?日本で生まれたら?でも、日本生まれでも所謂外国人の容姿だと十中八九日本人と思われない。日本人は日本が単一民族と思っているから。ハーフでも、日本人が知っている国ならまだ賛美される。でもクルド人には固有の国がない。「クルド?それどこ?マジ知らないんだけど」そんな反応が返ってきたら?でも、果たして自分にクルドを正しく伝えることが出来るのだろうか?父はクルドと言うアイデンティティが確率している。妹は日本人。でもサーリャは?

 父不在のなか、サーリャが弟妹を支える。お金はない。それなのに無理解非協力的な妹。お金語ないのに、暑いと言ってクーラーをつける。無言で切るサーリャ。日本語出来ないクルド人なんて放っておけばいい、自業自得と突き放す妹。そんなことは出来ない。自分が見放したら、彼らの日本での生活が立ち行かなくなるのは明らか。それは未来の自分達でもある。今だって必死に取り繕っているだけだ。

 監督の設定が上手いなって思ったのが、サーリャの年齢を高校生にした点。小中学生から見た高校生って大人に見えたけれど、実際は全くの子供。これがサーリャが大学生とか二十歳そこそこだったら話はガラッと変わってたであろう。寧ろ就労とかそういう問題も多少は活路見出だせていたのではないか。

 サーリャは普通に日本の高校生として普通に大学行って普通に先生になるって夢を叶えたかっただけだ。出稼ぎに来た外国人労働者ではない。それなのに、クルド人というだけで、国がないというだけで住む場所を奪われた。確実と言われた大学の推薦もビザがないということで認められず、一般入試すら無理という。自分が一体何をしたというのか。

 それなのに、妹は好き勝手に振る舞う。入管に収容された父は出られるよう頑張ってくれない。子供達だけでどうしろというのか。みんなをよろしくと言うけれど、自分こそが助けてほしいというのがサーリャの偽らざる本音だろう。日本語が話せないクルド人は頼りには出来ない。こんなときでも、彼らの世話は見なければいけないし、当たり前のように彼らも頼んでくる。

 そんな中、バイト先で仲良くなった男の子からのお金の援助。これ、一番心折れたのではないだろうか。思春期に友達、しかもちょっといい雰囲気になった異性に、よりによってお金恵まれたのだ。惨めだし恥ずかしかったであろう。それもこれも、意地を張って国に帰ると言う父のせいだと思うのも当然だ。なにせ不法就労がバレてバイトはクビになり、おまけに店長には甥(仲良くなった男の子)とは会わないでほしいと言われる。

 そんな中事態は動く。父が帰国するという。なぜ?帰国すれば逮捕されるからと頑なに拒否していたのではなかったか?真相は身近なところから判明する。自分達の面倒を見てくれていた弁護士先生からだ。日本で育った子供がいた場合、ビザが下りた判例がある。但し、親は帰国するという条件で。あなたのお父さんはこの判例を知ったのだと。この弁護士先生がまたいい具合にクソで。全くやる気がないわけではないのだろうけれど、所詮は他人事なのか、親身になってくれわけでもない。(少なくとも劇中でそのような描写はない)確かに、この描写が何で言ったの?と思わずにはいられないのだが、後の描写へのいい伏線となる。

 後日、入管の面談室にてサーリャは父と会う。父はサーリャに母国に眠る母のそばにいてやりたいから帰国すると嘯く。もし、サーリャが弁護士先生から何も聞いていなかったら、父は私たち生きている子供たちを捨て、死んだ母を選んだのだと恨むことができた。だが、サーリャは父の覚悟を知ってしまった。この帰国は単なる帰国ではない。帰国した父に待っているのは死かもしれない。いや、十中八九そうであろう。それを知っていながら、自分は父に翻意を促さない。自分は、自分(たち)の日本での将来と父の命を天秤に掛けて前者を選んだのだ。恐らくこれは今生の別れだ。互いに知っているのに知らない振りをする。何て喜劇で悲劇だろう。この瞬間少女は大人になったのだ。いや、ならざるを得なかった。きっとサーリャはこの秘密を一生抱えて生きていくのだろう。例え弟妹にも言わないだろうし、言うのなら表向きの父は母のそばにいるために帰国したという嘘を貫き通すだろう。彼女は、この瞬間父の命を背負って生きていく覚悟をしたのだと私は思った。最後のシーンのサーリャの横顔は、子供の自分に決別した大人の顔だと感じた。


 雑感をまとめてみて、改めてマイスモールランドのランドとは何か考えてみた。それは、朧気になりつつあるかつての母国であり、今母国となりつつある日本であり、自分達一家が過ごしたあの家であり、子供時分の学校やバイト先と言う狭い世界であり、何より父の庇護下と言う意味だったのではないかなと思った。そして、そこからの脱却だったのではないだろうか。


追記)劇中のかつての母語はトルコ語だそうな。

あとクレジットの「姿や名前を出すことができなくてもこの映画に力を貸してくれた日本で暮らすクルド人の皆様」と言う一文に、彼らの置かれた過酷な状況を考えさせられ、グッと来た。
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