peripateticS

ウーマン・トーキング 私たちの選択のperipateticSのレビュー・感想・評価

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staying or leaving
これは、女性の権利、性暴力への抗争、児童虐待の問題に限らず、すべての不均衡に言える話である。問題提起は、いつもきまって立場の弱い側にあり、説明責任やそのことによって生じた損失は、基本的に提起した者が負わされる。世の中のすべての権力関係にありふれた暴力構造の中で、提起した側がどのように葛藤するのかがよく描かれていた。

選択肢のひとつであるstayingは、赦し、戦い、対面、攻撃、防御、天国、再教育…などのキーワードと共に語られる。対する選択肢leavingは、逃げ、平和、健康、将来への希望、子どもへの愛、地獄…など。

いずれの発想の根源にも、キリスト教がしっかり横たわる。だが、登場人物は、ひとりを除いて女性の権利、権力闘争、不平等へのとクリスチャニティの相性が悪いことには目を瞑る。今読んでる本の中に、「家父長制のもとに文明はない」と書かれていたことを思い出した

当初、逃げであると解釈されたleavingの選択肢は、年長の中心人物に諭され、次第に争いのない、平和主義へと解釈されていく。つまるところ、おおむねキリスト教性は貫かれるのである。

んー、わだかまりが残る作品だった。
leaving(解釈込みの)は、作中描かれたような、人間の危機、子どもへの悪影響を鑑みた時には絶対に必要な選択肢である。でもわたしはこの不均衡にどうしても、納得ができない。問題提起をする側と、される側が抱えている最大の不均衡のこと。

危険を回避するための最も賢い方法は、問題提起をした側が身を引くことである。これは確かな事実。これまで女性の話に耳を傾けたことがない男どもが、「村から出て行ってくれ」という女性たちのお願いを聞き入れるわけがない、と笑うように。

しかし、女たちが去った後のコミュニティに、その後もおそらく大きな変革の機会は訪れない。権力構造と支配関係の旨味を知った彼らが取り残されたところで、暴力の連鎖は終わらないのだと思う。ホモソーシャルな世界にどっぷりな腐った頭の男たちにとっては、権力も暴力も男性性も相対的な概念でしかない。女性たちが忽然と姿を消したところで、何が原因かとか反省とか、はたまた女性らがどれほど思考し、葛藤して決断をしたのかなどに想像は及ばない

せいぜい、搾取先を、ソサエティ内で相対的に弱い立場の男性に変えて、同じことを繰り返すくらいじゃないか。温存されつづける、このクソ構造を、一体誰になら壊せるのか

「赦し」は「許容」と勘違いされ得ると、作中の年長者も言っていたじゃないか。大抵権力者は「悪意がない」ので、都合よく解釈する。権力構造に無意識でいられることが、権力者たりえる要素だろう

“Forgiveness can be, in some instances, confused with permission”
黙ってその場を立ち去る者の心の中に、葛藤と自己との対話を繰り返した者にしか得られない本当の赦しがあるのであって、間違っても、加害者の存在そのものを許したわけではない。真の赦しについて考えるとき、相手の存在は必ずしもいらないと思うことがある

どのようにすれば、去りつつもなお、受動的でない意思表示ができるのか。leaving but attacking が欲しい。その方法をずっと模索している。

"Your story will be different from ours"
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