草葉の陰も、泉の下も、並木通りの午睡も、シアターの縁淵も。きっと、僕らが思うより厚かましく、醜悪で、わざとらしく、それに蒸し暑い。
第一次大戦終結からおよそ20年後、ジャン・ルノワールによって制作された『大いなる幻影』。戦争映画の枠組みにあって、本作の、その最大の特徴は、なんといっても、絶対的な"悪者"が登場しないところにある。>>続きを読む
クンニリングスよりは面白く、また、ドラッグ・ストアの日用雑品売り場よりはツマらない。
便宜の問題に絡め取られた、上流階級の男と女たち。不実の世界、ボタンの掛け違い。大戦前夜。規則の揺らぐ音がする。
彼女の仕事は常に、所謂、本物の俳優ではない、一般の人々との関わりのなかで行われてきた。アニエス・ヴァルダのドキュメンタリー作品がいつも、不思議な暖かみを帯びているのは、ホームビデオを撮るような親密さで>>続きを読む
まる一年分泣きました😭
お兄ちゃんと別れて東京に来たときのことを思い出しました。
主に1960年代後半から70年代にかけて活動していた、黒豹党(ブラック・パンサー党)についてのドキュメンタリー映画。当党の主要構成員であったボビー・ハットンの逮捕を巡る、彼の解放運動の一幕をカメラに収>>続きを読む
後期になるにつれ(特に『落ち穂拾い』以降)、アニエス・ヴァルダの興味関心は、物語映画の制作と言うよりも、(大衆の解体による)個人性の発見へと向かっていた。彼女のドキュメンタリー作品の面白いところは、他>>続きを読む
"(本作の眼球を切るシーンに関して、アニエス・ヴァルダが)アンダルシアの犬に比べれば、目の手術なんて怖くないわ"みたいなことを言ってたなぁ。
(『顔たち、ところどころ』より引用)
ロジックが通底している作品はそれだけで十分に偉いし、尊敬できる。ここまでナンセンスではないにしろ、エンタメナイズドされたホラーに政治的主張や諷喩を織り交ぜてるところは、ジョン・カーペンターライクな精神>>続きを読む
飽食・飽物の世界とグラヌール(収集する人々)の世界を結びつける、"拾う"という行為に着目する。モノを拾うという、その行為には、貧しい者も富める者も、老いも若いも、関係がない。ただ、皆、一様に謙虚げに腰>>続きを読む
登る、降りる、転げ落ちる、踏み下ろす、這い上がる、躍り出る。こう見ると、階段って物凄い舞台装置だなぁ。
自死を誘引するウイルスによって多くの人類が消えた世界。文明は退嬰し、閑古鳥も鳴かない。ただ、何もかもが静かに、押し黙っている。そういう世界にあって、それでもなお、音楽を奏で続ける男たちがいた。
空>>続きを読む
こう見ると、ヴァルダもやっぱり、女性映画史的な文脈に根強く、関わってくるんだなぁ、と。
アラン・レネによる、図書館ドキュメンタリー。まずもって、ロケーションが素晴らしいから自然と、画にも見応えが伴ってくる。
ここ、と、よそ。ヒア、アンド、ゼア。シャン・コントル・シャン。イメージの切り返し。けれども、"一つの写真のように見える"。その両者に本質的な違いはない。音とモンタージュの技巧によって、彼はそれを、少な>>続きを読む
ゴダールのフィルモグラフィにおける、脱ジガ・ヴェルトフ以降の"静かな画面の中で技巧を凝らす(特にそれ以前と相対して)"という性格が如実に感じられる一作だった。そして、音によるイメージの拡張と集約。ここ>>続きを読む
このレビューはネタバレを含みます
前半の気を衒ったような、過激な演出が、後半の扇情的でみみっちい演出によって遡及的に浮き足立たされているようなきらいがある。もとは三章四部構成の短編映画だったらしいのだが、その分断をひとつの長編映画にま>>続きを読む
"ポワント・クールト"を観たら分かることだけど、ヴァルダは決して無批判に猫を愛しているワケではなくて、常にナマの生き物のひとつとして(愛玩動物ではあるけれども)、猫に敬意を払っている。
ニャンちゃんカ>>続きを読む
男の消失は街の守護像の消失であり、守護像の変化は女の変化、街の変化、世界の変化である。全ては移り変わってゆく。
ヴァルダ後期の短編(miumiuのCM)。スロー・モーションやCGをこんなに使うんだ、とそれでまず驚いた。それでいて、作風も全然違う。耽美的で寓話的。
被写体を愛撫するかのようなカメラワーク。上から下へ、堅固な静物を撮るうえでしっかりと撮り方自体にもルールを定めているところがよかった。
超大な建築物の曲線や絵画などに感じるエロティシズム。ロケーション、音楽、色彩、そのどれを取っても素晴らしい。"トイレットペーパーに詩を書いている"ことは、見落としてはならないことのひとつ。