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私だけ聴こえるのpurigoroのレビュー・感想・評価

私だけ聴こえる(2022年製作の映画)
3.7
色々印象的な言葉があったのに忘れてしまった…。(それくらい次から次に新鮮で印象的な場面が続き、思考と感情が色々と動かされっぱなしだった。)

(ドキュメンタリー)映画という手法でしか知ることの出来ない世界。コーダという言葉も知らなかったし、聴覚障害者の視点ではなく、その家族(子ども)に焦点を当てるというその着眼点がすごい。自分の知らない世界を見せてくれた、教えてくれた映画。
そして日本人の監督というのも興味深い。

印象的だったのは、聴覚障害のある親元を離れて大学に通おうとするジェシカが、家でホームパーティーをしたときのシーン。色々な会話で盛り上がるジェシカとその友達一同。だけど、ジェシカは手話で母親に通訳することもなく、普通に普通の同級生と同じようにただただ友達との時間(会話)を楽しんでいる。この時、聴覚障害のある母親は子どもたちの会話が全く分からないので、完全に蚊帳の外。取り残されてしまい、疎外感を感じている様子。母親はジェシカに通訳をして欲しがっている。明らかにジェシカに絡みに行っているが、全くそれに答えようとしないジェシカ。子どもたちの輪の外に1人残される母親の後ろ姿越しに楽しげな子どもたちの姿が捉えられ、切なげな母親が映されているが、でも、普通に考えて、親が聴覚障害者であろうとなかろうと、こういう年頃の時の友達とのホームパーティーには、親には近くにいてほしくないかもなぁと思ってしまった。。料理など母親が用意してくれているのだから、色々と準備だけさせて、あとはもう関わらないでほしい、なんて、子ども側のわがままの極みなのだけど、でもやっぱりそういう年頃ってあるよなぁーと。
聴覚障害のない親でさえ、子どもに鬱陶しがられたら(思春期だからしょうがないとは頭では分かっていても)少し寂しい気持ちなのだろうと思うので、聴覚障害のある親であれば、「無理にでも割って入ろうと思えば入れる」という状況ではそもそもなく、「子どもから拒否されたら取り残されざるを得ない」というその一択しかないという状況下では、尚更思春期の子どもとの関係性や付き合い方は複雑なのだろうなと感じた。
ここが1番印象に残ったシーンだったかもしれない。

ストーリーとは関係ないが、サマーキャンプで、2段ベッドの置いてある部屋で女子たちが集まって夜話すシーンは、まさにアメリカのサマーキャンプ!と言った感じでなんとも言えない楽しげな雰囲気を感じた。(日本人としてどうもこういう青春の1ページに憧れる。。)

ラスト、家族のなかでたった1人だけ聴覚障害のないナイラという少女が「最近聴力が落ちたような気がする」と言って聴力検査を受ける。結果は異常なし。ナイラは、「最近目を見て話せないことが多くて、それで聴こえずらいと感じるようになってしまったのかもしれない。」と話した。

彼らにとって、コミュニケーションにおいて表情だったりの視覚情報がどれだけ大切なのかということを痛感した。

表情やアイコンタクトなど、聴覚情報以外の情報は、聴覚障害のない者にとっても必要な情報であるが、聴覚障害を持つ人にとって本当に必要不可欠な情報なのだと知った。

今、コロナ禍で、マスクによって表情や口の動きが見えず、聴覚障害を持つ人たちにとってとても大変な時期であると前に何かの記事で読んだことを思い出した。

そしてそれらの表情や口の動きという情報は、聴覚障害を持つ人だけでなく、その家族やコーダなど、聴覚障害を持つ人と同じようなコミュニケーションを取っている人にとってもまた同じくらい重要な情報なのだというのは驚きだった。そしてそれを、コーダという特異な環境にいる立場の人が訴えたからこそ、普段いとも簡単に、「言葉・声を聴き、言葉で話して伝える」というコミュニケーション方法をとっている私たちにも、「目を見て話せない=声が聴きづらくなる」という我々からすると目から鱗の現象として表れることを教えてくれた。このことを知った私たちは、コミュニケーションというのは、ただ「言語」のみを通してするのではないと改めて気づくことができた。

昨今、スマートフォンが市場を席巻し、face to faceのコミュニケーションが激減している。そんななか、コミュニケーションの本質とは何か、この『私だけが聴こえる』はそれを我々に再度考えさせてくれる映画だ。
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