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ブンミおじさんの森のpurigoroのネタバレレビュー・内容・結末

ブンミおじさんの森(2010年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

『メモリア』を観て衝撃を受けてからの「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ」にて鑑賞。

鑑賞順は『真昼の不思議な物体』→『光りの墓』→『ブンミおじさんの森』→「短編集」。

●感想序文
こんなにも温かく包み込んでくれ、明るく前向きにスッキリとした気持ちになる映画があるだろうか。これまでの自分の人生の総まとめのような映画だった。自分の人生でこれまで心に溜めてきたもの(五感、想い、感情、願い、祈り、物や人との関係者)が全て詰め込まれているような映画だった。

●アピチャッポン監督の言葉
・子供の頃の思いを表現した
・全ての幽霊たちへの贈り物
・映画はいくつかのパートに分かれていて、それぞれのパートにそれぞれ捧げたい人がいる。(自分の父親も腎臓を悪くしていた。早くに亡くなった。)
・自宅近くのあるお寺から、「前世200年の記憶を持つ男」について書かれた本を得た。その後、その男の子孫などを探してその男にまつわる話を見つけ出そうとしたが、見つからなかった。

●『ブンミおじさんの森』作品概要
2010年/カラー/114分/DCP
腎臓の病に冒され、死を間近にしたブンミは、妻の妹ジェンをタイ東北部の自分の農園に呼び寄せる。そこに19年前に亡くなった妻が現れ、数年前に行方不明になった息子も姿を変えて現れる。やがて、ブンミは愛するものたちとともに森に入っていく…。美しく斬新なイマジネーションで世界に驚きを与え、カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞したアピチャッポン不朽の名作。


●感想①
〈アピチャッポン監督からのメッセージだと感じたこと①:グレーゾーンの大事さ〉
自分の中に色々な自分がいる。こうしたい自分、でもこうしないといけない自分。「出来ない自分」、「未来の自分の姿として選択したいけど選択できない自分」、それらを全部100%否定するのではなく、色々な可能性をちょっとずつ自分のなかに留めておいて良いのではないか。全部100%白黒つけることはないんだよと、そういうメッセージが込められていたと感じた。100%の自分で固めようとすると無理が生じる。理想と現実。本音と建前。理想が現実を食い尽くし、本当の自分がいなくなってしまう。理想と現実の乖離が起き、現実世界が生きられなくなり、精神を病むなど…。

ジェンの息子のトンは、「静か過ぎて寝られない」と言ってお寺を抜け出し、母親ジェンと妹のいるホテルにやってくる。だけど、恐らくお坊さんとしてお勤めがある時はお寺から抜け出したらいけないのだろう。ジェンから、「(お寺から)出てきてはいけないでしょう?どうしたの?」と言われる。それでもトンは「あそこは静か過ぎて眠れないんだ。そしてご飯を買いにコンビニに行きたいんだ。」と言う。ジェンに「外に出るとバレるから出ない方が良いのでは?」と聞かれるが、「大丈夫」と言ってお坊さんの格好(袈裟姿)から普段着(Tシャツとジーンズ)に瞬く間に着替える。着替えたらあらびっくり。あっという間に、お坊さんであることが全く分からないただの普通の若者の姿になる。
この着替えのシーンは、「あるべき姿・求められている姿=抑圧された状態の自分(お坊さん)」から「なりたい姿=抑圧から解放された自分」には、こんなに身ぐるみひとつでガラリと変えられるように、本当はもっと簡単にできてしまうことなんだ、思い切って行動さえすれば、簡単に乗り越えられる壁なのだ、というメッセージだと感じた。とても好きなシーンだ。
このトンは、自分をあまり抑圧せず、上手く理想の自分と素の自分のバランスを保っている存在として描かれていたように感じる。抜け出したらいけないというお寺を抜け出し、着替えまで持ってきてあっけらかんとシャワーを浴び、更に着替えて夜の町に夜食を買いに繰り出そうとしている。一応母であるジェンは大丈夫かと声をかけるが、「なんてことない」と笑って着替え始めるトン。ジェンもジェンで、「規則に反することはしてはいけない」と強く言うこともなく、そんな自由な息子を受け入れている。夜食を買いに行こうと妹を誘ったが断られ、結局ジェンが息子についていく姿も母親心が感じられて微笑ましい。
ジェンとトンが部屋を出ようとしたとき、2人が幽体離脱したかのように、ベッドに妹と一緒に座ってテレビを見ている「ジェンとトン」の姿が映し出される。トンはもう1人の自分の姿を見て、「一体何が起きたんだ」と驚くが、ジェンは「いいのよ、気にしないで」と笑ってトンに部屋を一緒に出るように促す。
このベッドに座っているもう1人のジェンとトンは、「未来にあり得たかもしれないもう1人の像」だろう。同じ時間同じ空間にひとりの人物が「物理的に」2人いることは現実世界ではあり得ない。だけど、「気持ち」や「心持ち」は、同時に存在しても良いのだ。気持ちまでひとつに限定する必要はないし、限定しろと誰かに言われてたわけでもない。だけど我々は、社会生活を続けるうちに、なぜか全ての選択肢をひとつに絞り、自分の理想や自分の気持ち、自分の存在をひとつに絞ろうとしてしまう。相反する気持ちを持つことをいけないことだと、いつから思うようになってしまったのだろう。

『真昼の不思議な物体』でも、「理想と現実」について感想を述べた。『光りの墓』でも、やはりそのような視点で捉えることができるシーンがある。ジェンが面倒を見る兵士イットが、「兵士を辞めてどこか別の土地で暮らそうかな」と言うシーンがある。そしてジェンの旦那さんも元兵士だったという話もどこかで出てきて、「兵士は讃えるべき職業で、兵士は尊敬されるべき存在だ。兵士になれたのはありがたいことで、その兵士をみすみす辞めて良いのか」というような会話が出てきたと記憶している。つまり眠りに落ちている兵士は、「理想=国の中で尊敬される兵士である自分」を保つがためにほぼ眠りにおちた生活を送っており、実態としては「起きている時間の自分=現実のリアルなありのままの自分」はほぼ存在していないのだ。したがって、『光りの墓』でも、「理想と現実」の狭間にいる人間の存在というものの在り方を問われた気がした。

そして、最後に観た『ブンミおじさんの森』。「色々な自分を自分自身で認めてあげる、肯定してあげる」ということの大事さ、それをアピチャッポンのメッセージとして感じた。そしてとても心が温かくなった。
「グレーゾーンの大切さ」を教えてもらった映画。だから、とても前向きになるし、自分を肯定する勇気をくれる。『ブンミおじさんの森』は、私にとってとても大切な映画になった。


●感想②
〈アピチャッポン監督からのメッセージだと感じたこと②:地球の胎動の上に世界はある〉

「世界は万物の理論で全て繋がっている」と感じた。地球の胎動として。「胎動」というワードは、『メモリア』でも「ミケル・バルセロ展」でも用いた言葉。

昔はその土地に伝わる話が代々伝わっていた。でも、それが代々伝わらない世の中になった。(核家族化、森の伐採、移動社会などによって。)昔は、自然とともに生きていた。自然とともに生きるというのは、「人間の欲望」だけで生きていないということだ。自然の恵に感謝し、日々の生活に感謝した。そして畏敬の念によって人々は己を省みた。

昔は「現実」と「理想・虚構=神」が曖昧な世界だった。全て科学的な根拠で示すことが出来なかったから。雷も神様が起こすと考えられていたように。だからこそ、目に見えぬ世界に深く思いを寄せ、寄り添い、自然の均衡を保ちながら生きていた。
その均衡が崩れ、人間の自業自得の罰としての災いが訪れる状況を描いたのが「もののけ姫」だろう。その均衡を取り戻すために、『ブンミおじさんの森』では、息子のブンソンは猿の精霊になった。
ラストに近いシーンで、ブンミおじさん、妻、ジェン、ブンソンが森にわけ入って洞窟に留まるシーンがある。どんどん地球の胎動に近づいて行っていると感じた。その世界では、「人間」も「亡くなった人」も「精霊」も「もうすぐ亡くなる人」も、違いはない。みんな同じ、個別の存在として平等に存在する。もはやそこに何らかの差異は感じられない。皆、砂の上に座るいち個別の存在だ。
なぜ人は、区別をつけたがるのか。科学技術が発達し、人々は理想を自らの手で作り出し、手に入れられるようになった。このようにして、人間の欲望を満たし、「理想」を手に入れるために「理想」と「現実」がはっきりと区別されるようになった。「理想」と「現実」が区別されると、自分には不必要と思われるものを排除するようになる。(例え他の誰かにとっては必要なものであっても。)そうして、自分には必要のない価値観を排除しようとする人間の行動は後を絶たず、人種差別やいじめ、戦争がこの世から消えることはない。
全てにおいてカテゴライズされたこの世界を、アピチャッポンはもう一度曖昧な、混沌とした世界に戻す。人間や動物、自然、祈り(幸せな明日を願う気持ち)が共存し、地球というひとつの胎動に包まれていた状態に戻すのだ。やはりグレーゾーンが大事なんだ。

・『メモリア』に始まり、『光りの墓』と、アピチャッポン作品において「媒介者となる人」とは何の存在なのか?と気になっていたが(ここでは亡くなった妻と、猿の精霊になった息子)、ブンミおじさんを観て全て腑に落ちた。「他人の声を聞く」ということ。耳傾けるということだ。これについては『メモリア』の感想で深く述べたい。


〈その他の感想〉
・猿の精霊が『もののけ姫』の猩々(ショウジョウ)だった。日本人以外の視聴者はその事実に気づけるのだろうか?

・もののけ姫の猩々は「カエレ 人間食う」だったのに、ブンミおじさんの猿の精霊は、体調を崩しているブンミおじさんを心配して、皆で集まって来てたのが泣けた。。涙(「人間は自然と共存し、多種多様な人種同士が尊重し合い、思い合っていけるのだ」と、そのアピチャッポンの想いを感じて胸が熱くなった。)

・ラストに近いシーンで、ブンミおじさん、ジェン、妻で森に入り、鍾乳洞のようなところで洞窟のなかの岩が光っているシーンは『耳を澄ませば』の雫が書いた小説のなかのワンシーンを彷彿とさせた。『もののけ姫』やら『耳を澄ませば』やらに繋がるような描かれ方がされていたのは宮崎駿ファンとしては嬉しい。特に『もののけ姫』が大好きなので、『もののけ姫』と繋がるところありすぎて鳥肌。

・息子のブンソンが精霊になった後の話を自ら語ってたシーンで「…それから妻をめとった」と言った時、「え!精霊も妻をめとれるんだ!?夫婦という概念あるんだ」と若干衝撃。笑

・息子のトンがシャワーを浴びる際、母であるジェンに「ありがとう」と言うと、ジェンが「良いのよ、今後私に良いことが返ってくるんだから」と。

・「それが俺のカルマだ」と度々発するブンミおじさん。
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