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真昼の不思議な物体のpurigoroのネタバレレビュー・内容・結末

真昼の不思議な物体(2000年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

「メモリア」を観て衝撃を受けてからの「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ」にて鑑賞。

●『真昼の不思議な物体』作品概要(HPより)
2000年/モノクロ/83分/35mm
タイ北部の村で行商人の女性が、撮影クルーに促され、一つの架空の物語を語り始める。その続きを象使いの少年たち、伝統演劇の劇団員たちなど、様々な人々がリレー形式で即興的に語り継ぎ、物語は二転、三転しながら思わぬ方向に進んでいく・…。ナラティブの常識を軽々超えていく自由なイマジネーション。同時に緻密を極めた構成に驚かされる。この作家の現在につながる類まれな創造性が全編を通して発揮されている重要作。

●アピチャッポン監督の言葉
・映画が旅へ連れて行く
・人の話に耳を傾けることで生が見えてきた(実際にタイ中を旅した。当時シカゴに留学中だったので、タイという国が懐かしかった。)
・現実と虚構の間

●感想
・まさに現実と虚構の間。
「六本木クロッシング2010展」出展アーティスト八幡亜樹の代表作の映像作品《ミチコ教会》(2008年)を想起させる。

・ナラティブ形式で、現実なのか虚構なのか分からない状態で話が進んでいくため、観客は受動的ではなく、能動的になる。観客もその一瞬一瞬で、ストーリー展開をまるでその場にいるかのように考えさせられ、観客もナラティブを引き受ける一員になる。

・カットがかかった後のメイキング映像も入れ込むという衝撃。(ここで、歩けないはずの「体の不自由な少年」が前触れもなく自然と立ち上がり、「先生」は台本を確認し始める。)

・先生が2人いることの意味とは何なのだろうか。人は、必ず2つの考えを同時に持っているのかもしれない。例えば、「善/悪」「理想/現実」「夢/現実」「虚構/現実」。
地元の子供たちが演劇をするシーンのお芝居のなかで「本物」と「偽物」の先生が2人同時に出てきて、「私が本物よ!」と、自分が本物であることを主張し合う。その後に「見極めるのはあなた自身」というセリフがあった。人は人生の中で常に自分の人生の選択を迫られているのだということを痛感させられた。そしてあなたは「どんな眼」を持っていて、どんな選択をするのか?と、自分に突きつけられている気がした。

「偽物の先生」の存在は一体何なのか?本来、「本物」に対する「偽物」は「悪」とされるべき存在かもしれない。しかし、「偽物の先生」は、単に少年を騙し、操り、手玉に取るために現れた存在ではない。「少年が落ち込んでいたから励ますために先生になった」と、宇宙の少年は言っていた。つまり「偽物の先生」は「少年を励ましたい」という宇宙の少年の気持ち(優しさ)から生まれた存在だ。でも、実際はこの「宇宙の少年」も虚構の存在である。実態としては存在しないはずのものが、感情を持つはずはない。では、この宇宙の少年の気持ちは何を表象しているのか?と言うと、「体の不自由な少年」の心の奥底の本心なのかもしれないし、「体の不自由な少年」を想う第三者の気持ちかもしれない。
つまり「本物ではない存在」(=夢、虚構、理想)は、何もなかったところに突如として現れるものではないのだ。必ず何かしらの「想い、背景、文脈」などが絡み合って生まれるものなのではないか。(※スターウォーズの「ダークサイド」と同じだ。)そう考えると、人が「夢、虚構、理想」など何らかの人間の感情から生み出された「偽物の存在」を選んだとしても、それは必ずしも「悪」ではないのではないか。仮に「体の不自由な少年」が、先生が戻って来てくれたことが嬉しくて、(本当は先生は戻らぬ存在になったのではないかと心の奥底では感じていたとしても)偽物の先生を受け入れ、偽物の先生と生きていくことを決めたのだとしたら、それは本当に「悪」だろうか?それは、「間違った選択」と言い切れるだろうか?

近所の男が先生を生き返らせ、それに怒った「偽物の先生」が悪魔になって「本物の先生」を殺そうとするシーン。「本物/偽物」「現実/理想」の逆転が起きている。「理想」が「現実」を殺そうとする。「理想」が「現実」を食い潰す。一度「理想」を甘んじて受け入れると、その後は二度と現実と向き合うことが出来ないうという忠告だろうか。

上で〈「体の不自由な少年」が「偽物の先生」を受け入れて生きて行くことが「悪」と言い切れるだろうか?〉と問いかけたが、もし「理想(虚構)」と生きて行くと決めたならば、「二度と現実とは向き合わない」という、自分の現実を全て捨てて生きて行く覚悟が必要だろう。何故ならば、「理想(虚構)」の世界に生きれば生きるほど、(見たくない)「現実」を突きつけられた時の衝撃が大きいからだ。
(実際、クリストファー・ノーラン監督の「インセプション」では、「現実」を捨て、「夢」の世界で生きると決めた主人公の妻が、一瞬「現実世界」を思い出してしまったがために、理想と現実の境が分からなかなり、発狂し、さらに現実の世界に耐えられず、自ら命を絶っている。)

・劇中では、登場人物がナラティブ形式で物語を繋いでいく。観客は、(全ての話がフリートークだとは思わないにせよ)「話の一部は本当に自由に想像して話してもらっているのかもしれない。どこまで細かく作り込まれているのだろう?」と、「虚構」と「現実」のなかで揺れ動きながら、物語の展開を、まるでその場で話を聞いているかのようなリアルさを感じながら、追っていく。

「偽物の先生=虚構」と「本物の先生=現実」の2つを突きつけられたとき、「見極めるのはあなた自身」と言われたように、〈人は人生の中で常に自分の人生の選択を迫られているのだということを痛感させられた〉〈そしてあなたは「どんな眼」を持っていて、どんな選択をするのか?と、自分に突きつけられている気がした〉と上で書いたが、まさにこの映画自体がこの構造を含んでいる。つまりこの物語の展開、ナラティブ形式という形式自体が「虚構」と「現実」の境にあるため、観客は劇中を通して常に、観客自身の「眼」を試されている。「あなただったらこの時どうする?どういう選択をとる?」「先生を助けた近所の男の人は善人だと思う?」「先生が倒れたとき、すぐに助けを呼ばなかったのは何故?」などと、物語の分岐点のひとつひとつに、観客自身の「善悪」や思考回路を問いかけているのだ。

・後半は一切「先生」も「体の不自由な少年」も出てこない。(語られるのみ。)

・ボクシングのバックミュージックが地元の(伝統)音楽という驚き。

・「両親に捧ぐ」というラストの言葉。
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