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ヘイル、シーザー!のダイアンのレビュー・感想・評価

ヘイル、シーザー!(2016年製作の映画)
3.0
芯食ってくるかどうか。ツボを押さえてくるかどうか。映画にとっては大切なポイントだ。ミステリーを観るとき、ディズニーを観るとき、必ずそこにあるツボを観客は意識して、出たり入ったりする。映画は裏切りと伏線で物語を展開しつつ、必ず最後までに芯を食う演出で〆る。

この芯をどれほど独自に魅力的なものを創造できるかが監督稼業であるが、コーエン兄弟の芯とやらは、いつも摩訶不思議だ。皮肉とユーモア、コメディとサスペンスが交錯する世界観といえばそれであたかも芯を理解できているように思える。
でもいつも俺は「…ここは笑うとこだよね?」「今のシーンって、えーっと、なに?」と頭の中で問答をしている。映像を追っていけば勝手にツボを教えてくれる親切さはない。

ジョージクルーニーの微妙な顔芸なんかは序の口だ(爆笑するけど)。ときに正面から単純なネタのような演出を見せられると困惑する。周到に、絶妙な、職人芸的なシーンを期待してるからだ。
潜水艦に乗ってロシアに亡命するシーン。淡々と描くから笑っていいのか戸惑う。犬を庇って身代金が海の底へ。あーあ。シーン終了。あれ?コーエン先生、俺のリアクションは足りてますか?

あからさまにバットのスイートスポットを外し、ボテボテの当たりでも塁に出る選手を見ることがある。豪快なホームランでなくても、イチローのような鮮やかなバッティングでなくても、たぶんこの世の全野球の何割かは、芯食ってない当たりで構成されている。
そしてそれらは無視できない。芯食ってないということがゲームを動かすことがあるなら、それは芯を食っているのではないか、と思う。
コーエン兄弟は、芯を外してくる。そしてこちらに問いかける。「芯から外れてるってことは、ダメな映画ですかねぇ?」こちらはむしろそんな作品にみるみるハマる。と思ったら「ノーカントリー」で戦慄を知る。
芯に当てることでなく、芯とは何かを問う。それが芸術だ。コーエン兄弟の作品は芸術の予感を漂わせ、僕らの前提を疑う。
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