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光りの墓のpurigoroのネタバレレビュー・内容・結末

光りの墓(2015年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

『メモリア』を観て衝撃を受けてからの「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ」にて鑑賞。

鑑賞順は『真昼の不思議な物体』→『光りの墓。
『光りの墓』を観て感じたことは、『メモリア』を観て感じたことに近かった。メモリアもそうだが、何故「人」が媒介者となるのか。そこにアピチャッポンの伝えたいことの核となる部分が隠されている気がした。

印象に残ったこと。
・静寂のなかに始まるポップミュージック
・病室の中の、色が変わるライト
・「『サタンの愛』の新刊が出たよ」(「サタン」の「愛」とは興味深い。やはり世の中には善悪必ず存在するということか。)
・ジェンの旦那さんがアメリカ人
・ジェンが旦那さんと一緒に行った御堂の神様の像がリアル人間に近すぎてびっくり(後に「ラオスから来た」と言って人間となって現れた姉妹の神様)


●アピチャッポン監督の言葉
・故郷への手紙として、手紙を贈るつもりでこの映画を作った。
・自分の故郷の街が舞台。(この手紙を贈ることを最後に、自分の故郷を離れ、もうここには戻らないという意識で作った。)
・当時、タイ国内の情勢が良くなく、政治的な発言ができない状況だった。それでも、この映画には政治的なメッセージも込められている。
(↑※記憶を手繰り寄せて書いているので、多少異なる部分もあるかもしれません。)


● 『光りの墓』作品概要(HPより)
2015年/カラー/122分/DCP 
タイで撮影された最後の長編映画。タイ東北部の町。かつて学校だった病院。原因不明の“眠り病”にかかった兵士たち。ある日、病院を訪れたジェンは前世や過去の記憶を見る力を持った若い女性ケンと知り合い、眠り続ける兵士イットの面倒を見始める…。最新作『MEMORIA メモリア』にも共通する「記憶」というテーマで、プレミアとなったカンヌ国際映画祭ではアピチャッポンの新たなステージと絶賛された。怒りや悲しみを色濃くしながらも、ユーモアと優しさが胸を打つ感動作。


●感想
★現代において「神」の存在を超えるのがナラティブかもしれない。

・『メモリア』を見て、ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の天使」を思い出し、〈「歴史の天使」になり得るのは「土地」だけでないのか!「人」もなり得るのか!〉と強く思い、「人」に媒介者としてのフォーカスを当てたこと、その発想に衝撃を受けたが(…と同時に、ここ数年漠然と感じていた、一見すると誰でもない「個」としての「人」の存在の重要性と、その「個人」が行う「祈り」という行為の意味とも繋がり、合点がいく部分があり、納得感が半端なかった)、『光りの墓』の感想は、ほぼ『メモリア』の感想と同じになる。というか、『メモリア』を見て感じていたけど言語化できずにもやもやしていたことが、『光りの墓』を観て、とても腑に落ちた。

・ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の天使」とは
その土地に起きた出来事をその土地は覚えている、それぞれの土地にはそれぞれの土地だけが持つ記憶がある、という考え。それをベンヤミンは「歴史の天使」と呼んだ。例えば長い間その土地を見守る1本の桜、取り壊された団地の跡地、戦地。百人一首に出てくるような滝もそうだろう。戦地のような特別な場所だけではなく、地球上の全ての土地(主に人間が介在してきた土地)には「歴史の天使」がいるという考え。

・「歴史の天使」という考え方には非常に納得がいくものがあり、私自身とても共感している。(というか私も同じ考えを昔から持っていたが、それを「歴史の天使」と表すとは流石のベンヤミンである。)
「歴史の天使」を日本の身近な例で考えてみると、例えばその土地土地に伝わる昔話や怪異(民俗学的な伝承)、伝統行事(自社仏閣に関するものや、先祖供養)。そして土地や道路の名前などが挙げられる。(土砂災害が多い土地には土地名に「龍」がついている。=水が暴れるのを龍に例えていたなど。)
これらは全て先祖代々その土地に受け継がれる話が元になって出来たものだ。つまり、その土地に代々伝わる空間のナラティブである。昔話や怪異話などは、その土地土地で少しずつ内容が変化し、今も受け継がれている。

・「現代において『神』の存在を超えるのがナラティブかもしれない。」と書いたが、むしろ大昔はナラティブこそが神であったし、神を神たらせるものがナラティブであった。(特にその土地に根付く神。)「光りの墓」では、「ケン」が「眠りに落ちた兵士」の心の声や、過去にその土地で起きた出来事を読み取り、それをそのまま「伝える」という構造のため、ケン本人が物語の主体ではないという点で厳密に言うと「ナラティブ」ではないのだが、それは兵士が「伝える・語ることが出来ない存在」だからだ。つまり、ケンは自分自身のナラティブを語る者ではなく、「他者」のナラティブを「伝え語る者・媒介者」である。

「光りの墓」では、人々の役割が
①「語れぬ者(眠りに落ちている兵士)」
②「媒介者(若い女性ケン)」
③「語りを聞く者(ジェンや兵士の家族)」
の3つに分かれている。

ほぼ全ての時間眠りに落ちている兵士は、「語れぬ存在」である。これは、タイ国内の政治情勢を表したものであることはひとつ見て取れるだろう。しかし、タイに限ったことではなく、この「語れぬ者/媒介者/語りを聞く者」という構造は、もっと普遍的な示唆を含んでいるのではないだろうか。
現代(映画公開時の2015年においても)は、インターネットやSNS等が発展し誰とでも気軽にコミュニケーションが取れる環境が整った時代である。昔は先祖代々の言い伝えなどが文書で残っていたり語り継がれていたが、今は先祖が語る姿をそのままスマートフォンのビデオ機能で撮影し、動画で孫などに見せることさえできる時代だ。
しかし同時に、様々な情報が溢れ、真実と嘘が混じり合った情報化社会。SNSを通じてより同調的な側面を強める人間関係は、人の「本音」と「建前」を一層強めているだろう。そこには、「本来語れるけど語れない人」が多く存在する。過去の戦いに巻き込まれて眠りに落とされている兵士と同じだ。現代社会の語れぬ人々は、想いを押し殺し実在しない亡霊のように生きるか、SNSなどで他人を誹謗中傷し直接関わることのない赤の他人に無理矢理関与し一方的に語ることで自分自身のバランスを保っているかのどちらかだ。
そのような現代社会においては、誰しもが皆、〈ケンのように自分自身のナラティブを語る者〉ではなく、〈「他者」のナラティブを「伝え語る者・媒介者」の存在〉を求めているのではないだろうか。

ケンの能力について、ケンの特殊な能力は全て現代社会の有り様を比喩的に表しているのだと、つまりケンのように人の声や過去の土地の声を聴けるという能力を持った人はいないのだと、人間の第六感を否定したいわけではない。そのような人間本来が持つ動物的勘もあるかもしれないし、何かしら時空の歪み的なことが起きて不思議な現象が起きることもあるだろう。
そのような可能性も含めて、ますます様々な情報が溢れ、様々な情報にまみれ、様々な情報が複雑に絡み合う現代においては、表出するある一面だけを見て判断するのではなく、ある事象の背景を丁寧に読み解き、「語れぬ者」たちの声を聞くことが、個々の価値観を持って生きていく上で重要なのではないだろうか。

絶対的な価値観である「神」が人生の指針となるのではなく、生きた人間、我々の前にいる誰かのリアルな声に耳を傾け、自分自身の指針を常にフレキシブルに考えることが、変化し続けるこの世の中では重要なのではないだろうか。そういう意味で、ナラティブにこそ指針のヒントがあると言えよう。
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