ダイアン

わたしは、ダニエル・ブレイクのダイアンのレビュー・感想・評価

4.0
最後のシーンは静かながらも、強い。人を殺して制度を生かす、とはまさにこのことか。
格差とそれに対処する仕組みが蔓延し、代わりに例外を許さず人への尊厳を失い、なめらかにオートマチックに「解決」へ向かい、該当でないもの反抗的なものは過剰な「不対応・処罰」の対象となる。
本当に危険な言葉がラストシーンにあった。「国の制度がダニエルを殺した」。果たしてそうか。心臓病はいつ発症するかもわからないし、制度が充実していても彼に発作が起きたかもしれない。もし自分が行政の職員だったらきっとそういうだろう。相手が相手なら裁判沙汰だ。行政対応がダニエルに与えた精神的負担、云々。
思いやりを持って対応すること、と現場指導が対処的に行われる。システムを提供する側すら辟易としているから思考停止だ。

制度の恐ろしさはそれに関わる者全員に、ほぼ例外を許さず、不寛容の感受性までもを蔓延させることだ。内部の者や同じ状況の者には強い連帯や信頼を示すが、提供者と被提供者、内部と外部に対立を作る。

ケンローチは時に行政職員の例外的な対応やフードバンクや道行く人々にその風穴を示した。でも制度そのものが仮想敵を想定して攻撃性を強める(主権を主張することは権力外の対象を同時に指し示すのに似ている)から、最後の言葉が、単にワーキングクラスの怒りとして、反逆の狼煙としてだけには聞こえないのだ。なんとか人間らしさを維持をしようと歯をくいしばる「尊厳」もまた制度によって「不寛容の尊厳」に覆われていく、巨大な暗雲の影のように見えてしまう。

僕らが生きる今の社会なんてきっとそれくらいのものだ。世界中の情報が手元で集めれる一方で、オンラインできない人はどこまでも置いていかれる。若い女性が食べ物に困り、風俗の稼ぎで子供を養う。
この現実を諦観するのか反発するのか同調するのかは受け手による。ケンローチは大きな問いを置いていった。
ダイアン

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