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『最強武将伝 三国演義』のエピソード情報

桃園の誓い

後漢末年、漢朝廷の腐敗は頂点に達し、生活に困窮した民の中からは、 ついに黄巾の乱が起こり、時代は乱世に呑み込まれてゆく。 暴徒と仮す黄巾族に対し、朝廷は各地に黄巾族討伐の義勇兵を募った。 その頃、啄県では、漢王室の血を引く劉備は関羽、張飛と出会い、 国を救う大義の下、桃園の誓いを交わし、義勇軍への参加を決意する。 一方、朝廷より派遣された義勇軍に加え、豪州の曹操ら各地の豪族も兵を起こしたため、 次第に追い詰められていった黄巾族は、董卓将軍率いる朝廷の軍隊の突破を試みる。 黄巾族の猛烈な反撃にあった董卓は惨敗するが、危ういところを劉備軍に助けられる。 やがて、黄巾の乱は終焉を迎えるが、 董卓将軍の救出という大きな功績にも関わらず劉備は小さな平原県の県令とういう官吏起用に留まった。 挙句の果てに、朝廷より派遣された官吏監視の役人の堕落しきった心を憂い、 自らの大義を為すため、官吏の職を捨て、県民たちに惜しまれながらも希望を胸に旅立っていく。

漢王室の風雲

黄巾の乱は治まったものの、宮廷では未だ腐敗しきった宦官が蔓延っていた。 その宦官の排除を大義名分に朝廷を我がものにせんと、董卓が密かに動き出す。 董卓軍襲来の知らせを聞いた宦官たちは、まだ幼い皇帝である少帝と、その弟陳留王を擁し王宮から脱出する。 一方、宦官の悪政を憂いつつ、董卓の野望を阻止せんと、曹操は大臣である王允と結託し、皇帝の救出に向かう。 しかし、少帝一行は董卓軍に発見され、 少帝を宦官から助けたという名目で董卓は朝廷に上がってしまった。 権力を握らんとする董卓は、傀儡政権を目論み、少帝を廃位させ、 弟の陳留王を即位させることを宣言する。これに反対した大臣や武将たちは、董卓軍と一戦を交えることとなった。 その戦いの最中、董卓軍に豪傑呂布が立ちはだかる。 呂布の戦いぶりに手も足も出ない董卓であったが、呂布は勇猛なだけで知謀がない事を悟り、 呂布の買収に動き出す。欲に目がくらんだ呂布は、ついに逆賊董卓の部下になってしまった。 呂布を得た董卓は、いよいよ権力を掌握し悪政を行う。 耐え兼ねた曹操は董卓暗殺を謀るが、未遂に終わり、都を追われることとなった。

董卓討伐軍

董卓暗殺を謀り賞金首となった曹操は中牟県で兵士に捕らえられてしまう。しかし、曹操の志を知った役所の役人陳宮は曹操を英雄と崇め、曹操に付き従い脱走する。逃避行中、曹操の内に秘めた恐ろしさにより、陳宮から見捨てられるものの、故郷に戻った曹操は全国に檄文を送り、袁紹を盟主とする董卓討伐軍を編成し、董卓軍と対決することとなった。 しかし、董卓軍には華雄という猛将がいた。董卓討伐軍の数々の武将が討たれる中、討伐軍に参加していた劉備の部下関羽が名乗りを挙げ、見事華雄を討ち取る。勝利に乗じて攻め込む討伐軍に、今度は呂布が立ちはだかる。これを、劉備、関羽、張飛の3人で退け、虎牢関まで攻め込んだ。 討伐軍の曹操と袁紹は董卓軍の壊滅をさせるため、王允に密書を送り、朝廷内外から董卓軍の挟み撃ちを謀る。その動きが董卓のしるところとなり、王允は取り調べられるが、黄巾の乱の折、王允の養女となった美しい娘・貂蝉の気転により、窮地を脱する。 討伐軍と朝廷内からの反乱を恐れた董卓は、都を洛陽から長安に遷都することを強引に決定する。 廃墟と化した洛陽に攻め込んできた討伐軍は、人馬ともに疲弊しきっていた。そんな中、1人董卓討伐に燃える曹操は、追撃をためらう他の諸侯を尻目に、単独で董卓を追って行くのだった。

悲しき策略

単独で董卓を追撃した曹操であったが、呂布軍に返り討ちにされてしまった。長安に都を移し、権力を磐石のものとした董卓は、宴会の席で討伐軍の投降兵を虐殺し、自分の陰口を叩いた者を報告しなかったとして張温将軍をも処刑してしまった。その張温の処刑を悲しんだ義兄弟の李粛に目をつけた王允。王允は董卓排除の計画に李粛を引き込み、董卓が支配する関所を潜り抜け、曹操へ董卓討伐の密書を届けさせた。 密書を受け取った曹操だが、董卓の兵力が増大している今、出兵するのは得策でないとし、王允の計画は徒労に終わった。 落胆する王允に対し、李粛はある計画を持ち出す。それは、美貌と知性を兼ね備えた貂蝉を利用し、董卓と呂布の仲違いを謀るというもの。王允は苦悩した上、貂蝉に話を持ちかける。貂蝉は実父ではない王允の今までの恩に応えようと了承した。 仲違いの計画であるとは露知らず、呂布は王允により貂蝉に引き合わされ、たちまち恋に落ちる。王允からの縁談も快諾してしまった。 王允は曹操に対し呂布を董卓から引き離す計画があり、その間に董卓を討伐して欲しいと告げた。その頃、親族が董卓配下の陶謙によって皆殺しにあっていた曹操は、陶謙に復讐することを第一とし、董卓征伐へは僅かな兵を送ることにした。 曹操の挙兵を知った董卓は、呂布に曹操討伐の命令を下す。呂布は王允に対し、帰ってきた暁には貂蝉との婚儀をと約束し、戦場へと向かって行くのであった。

董卓の最期

王允と李粛の計画は順調に進む。呂布を虜にした貂蝉は、董卓をも惑わす。王允が設けた接待の席で、董卓は貂蝉を見初める。気に入ったのであればと王允は貂蝉を董卓に差し出した。 曹操軍に勝利をして帰ってきた呂布は、王允から呂布との婚儀をあげる準備をさせるため、董卓が貂蝉を連れ帰ったと告げられる。急いで董卓邸に貂蝉を迎えに行ったが、そこで待ち受けていたのは貂蝉が董卓に奪われたという事実。 愕然とする呂布だが、貂蝉を諦めきれない。貂蝉もまた、自分は無理やり董卓に奪われたと告げ、今でも呂布を慕っているような素振りの芝居をした。 貂蝉を奪われた悲しみから次第に董卓へ対し憎悪を募らせる呂布の心を、王允と李粛が巧みに操り、ついに董卓抹殺を決意させるのだった。 何も知らない董卓に、突然帝位譲渡の話が舞い込んだ。罠だとは知らず喜び勇んで王宮に向かうが、兵士に囲まれる董卓。何事かと不審に思う董卓の前に王允が現れ、董卓の逮捕を命ずる。助けを叫ぶ董卓の後ろからは、呂布が董卓討伐の詔を読み上げ、一閃の下に董卓を切り捨ててしまった。 呂布は貂蝉を迎えに行くが、既に彼女の姿はなかった。

曹操の野望

貂蝉を失った呂布は蛻の殻となってしまった。董卓を失った長安の都は混乱を招いており、董卓派残党の李カクと郭が反乱を起こしていた。王允は反乱軍から逃げもせず、董卓は逆賊であったという己の信念を貫き、自殺を遂げたのであった。 その頃、一族の報復をするため、陶謙がいる徐州を攻めている曹操の下に珍客が訪れた。かつて、董卓に追われている際に助けられた陳宮である。陳宮は曹操に陶謙の無実を説くが曹操は聞き入れない。彼の本当の狙いは徐州攻略であったからだ。 曹操の前から去った陳宮は呂布の下に向かい、呂布の再起を説く。ここでようやく貂蝉からの呪縛を逃れ、豪傑呂布が復活した。 一方、孔融将軍より陶謙救出を依頼された劉備は、公孫に3千の兵と趙雲を借り受け徐州に現れた。城郭を包囲する曹操軍に対し、劉備自ら先陣を切って陶謙の下に食料を運び込み、陶謙と共に曹操への対策を練る。 劉備からの休戦の申し入れの書状を読むが、曹操の野望は消えぬ。虎視眈々と徐州を狙う曹操へ、火急の知らせが届く。 それは、曹操軍の後方、エン州が呂布と陶謙によって攻め落とされたという知らせだった。

呂布と劉備

エン州を攻め落とされた曹操は、仕方なく劉備の申し入れをのむ形で徐州から引き上げ、エン州救援に向かった。 曹操軍から解放された徐州は歓喜した。陶謙から徐州長官に任命されるも、劉備は固く辞退したが、陶謙の請いを入れ小沛に留まった。 曹操軍の逆襲を受けることとなった呂布は、陳宮の知恵もあり、優位に戦っていたが、傲慢な呂布の性格が災いして、エン州を支えきれなかった。 エン州を再び手に入れた曹操に、都からの特使が現れる。皇帝が曹操に長安の平定を依頼してきた。長安を制圧した李カクと郭が仲間割れをした挙句、共倒れとなり、都が混乱しているというのだ。これを利用し、曹操は宮廷の権力を掌握し始めることとなった。 やがて陶謙が病に倒れ、遺言により徐州は劉備のものとなった。その劉備の下に、呂布が身を寄せてきた。そのことを知った曹操は危惧を覚え、呂布を討伐するよう劉備に伝え、呂布と劉備の仲を裂こうとするが、劉備は快く呂布を保護した。 そこで曹操はある秘策を思いつく。

駆虎呑狼(くこどんろう)の計

劉備と呂布を仲違いさせる作戦は失敗に終わったが、曹操は詔をもって劉備と袁術を対決させることにした。 劉備は袁術討伐の詔が曹操の陰謀だと知りつつも出兵する。徐州の留守を預かったのは張飛。しかし宴会の席で呂布の岳父を鞭で叩き、呂布からの徐州を追い出されてしまった。 袁術軍にも敗れた劉備は行き場を失ってしまう。夫人が呂布に捕らえられているため、仕方なく徐州に戻ることを決意した劉備を、呂布は思惑があって受け入れ、小沛に住まわせた。袁術が徐州に攻め込んできた時の盾とするためだ。 思惑通り、袁術は徐州に攻め込み、小沛の劉備を攻めてきた。袁術の申し入れにより呂布は手出しをしない約束をした。が、呂布は開戦前の戦場に姿を現し、両者の大将を自邸に招き、宴会を催す。その席で、ある賭けを持ちかける。自分の方天画戟を遠く離れた地面に刺し、弓でそれを狙い、当たったら両者の和解、外れたら戦闘を開始するというもの。果たして呂布の真意とは。

宛城の戦い

呂布は見事方天画戟に矢を命中させ袁術軍と劉備の和解を成立させた。 計画が失敗に終わった曹操は、苑城と新たな人材賈を手に入れ、勢力の増大を計った。苑城まで攻め懸けると城主の張繍からの降伏の使者として賈が現れた。賈を味方に取り入れようと説くが、賈は張繍の恩義を捨て切れず曹操は断念する。 苑城を手に入れた曹操は、張繍の美しい叔母を自分の元に連れてきてしまった。それに怒りを覚えた張繍は賈と謀り、曹操軍を追い散らした。曹操はこの反乱で、勇猛な典韋と長男の曹昂を失ってしまう。 また、小沛に身を寄せている劉備は、呂布から攻められることとなった。原因は、張飛が呂布の馬を奪ったことだ。劉備は仕方なく、小沛を離れ、またも孤立してしまった。 行く先のない劉備は、曹操の下に身を寄せる決意をする。 張繍に敗北した自軍を立て直した曹操は、劉備を快く受け入れ、張繍を攻撃する間の後詰とした。しかし、曹操の留守を狙い、呂布が攻めかけてくる。劉備は後詰として必死に持ちこたえた。 張繍を討伐し終えた曹操は、劉備と力を合わせて呂布を成敗することとなる。大軍を相手に息をまく呂布は自ら出陣し、徐州を陳珪に任せることとした。しかし、陳珪・陳登親子は不穏な動きを見せるのであった。

堕ちた英雄

曹操の大軍を呂布・陳宮の軍勢で夜の闇に紛れ挟み撃ちにする予定であったが、陳登の計略にはまり、呂布軍、陳宮軍は曹操軍を相手にしているつもりが、仲間討ちを始めてしまった。朝になりようやく仲間討ちをしていることに気づいたが、呂布・陳宮率いる軍勢は多大な損失を出してしまった。 呆然とする呂布・陳宮をめがけ、今度は本物の曹操軍が攻めてくる。疲労と混乱の中、呂布軍は退却を余儀なくされた。 徐州の城にやってきたが、城を守る陳珪は城門を開けずに、呂布を罵った。陳珪に裏切られたことを知った呂布は、すぐさま陳珪の息子・陳登を探すが見当たらない。そこへ、小沛を守っていた張遼が呂布の前に姿を現した。張遼も陳登に騙され、小沛を捨て、呂布の下に来てしまったのだ。すべてを悟った呂布は、仕方なく下に退くこととなった。 下の城は大軍に包囲された。陳宮の再三に亘る作戦を無視し、妻の言うことを重用する呂布はやがて部下たちにも愛想を尽かされてしまう。呂布方を裏切った部下たちにより、呂布はついに生け捕りにされ、曹操らの前に突き出されることとなった。 呂布の参謀であった陳宮は、自ら死刑台に上り、潔く死を選んだ。これを見た曹操は複雑な表情で眺めやり、陳宮の家族を手厚く保護するよう部下に命じる。 一方、生への執着を見せる呂布はあれこれ助命を嘆願するが、義父を2人も殺していることを指摘され、ついに処刑されてしまった。 次に、張遼が曹操の前に引き出された。曹操を罵る態度に怒りを覚え、曹操は自ら剣を抜き、張遼に切りかかった。が、その曹操の腕を止める者がいた。

英雄の資格

張遼に切りかかった曹操を止めたのは劉備であった。張遼の忠義を説き、助命を嘆願した。曹操はこの請いを入れ張遼を助けることにした。 曹操は劉備を伴い、献帝に目通りした。劉備の素性を聞いた献帝は、すぐに家系図を調べさせ、劉備が自分の叔父にあたることがわかると、皇淑の肩書きを与えた。 劉備の権力拡大を恐れた曹操方は監視を付け、劉備を見張ることにした。劉備方も献帝の狩りの際、まるで皇帝の威光を我が物のように振舞う曹操に対し敵意を抱いていた。 ある日、曹操は劉備を自邸に招き宴会を催し、腹の底を探ろうとしたが失敗に終わった。しかし、劉備の元に密使が現れる。使者は皇帝からの曹操討伐の詔を携えていた。劉備はすぐさま承知し、計略を練り始めた。 袁紹・袁術討伐の会議の席で、劉備は袁術討伐の作戦を提案し、自ら出征する許可を得ることに成功し、すぐさま軍を率いて徐州に向かった。その中に、1人浮かない顔の張飛。張飛は偶然出会った夏侯蓮という少女に恋をしており、数日後に会う約束をしていたからだ。しかし、出陣となると仕方がなく、渋々陣に加わった。 劉備出征を聞いた曹操傘下の郭嘉と程は、劉備の裏切りを憂い、曹操に詰め寄る。曹操もこれを受け入れ、使者を飛ばし劉備を呼び戻そうと試みる。しかし、劉備は道理に適った理由を並べ立て、行軍を続けたのであった。

三つの条件

徐州に到着した劉備一行は、袁術軍と対陣した。張飛が相手方の猛将・紀霊との一騎打ちに勝利したのを皮切りに、一気に劉備軍が攻めかけ、袁術軍は大敗を喫した。その逃避行中、袁術は病にかかりこの世を去った。 劉備大勝利の知らせを曹操は耳にした。が、その知らせをもたらしたのは、劉備軍を監視するはずの朱霊と路昭であった。2人は劉備に追い返されたのであった。激怒した曹操は、徐州の長官を務めている車胄(しゃちゅう)に劉備暗殺の密書を送った。 密書を受け取った車胄は劉備の暗殺にかかるが、警戒していた劉備軍に返り討ちにあう。劉備は袁紹と手を組み曹操を攻め落とす覚悟を決める。そのことを知った曹操は、劉岱(りゅうたい)を差し向けた。 劉岱と対陣したのは張飛。張飛は陣中で居眠りをした兵を処罰し、自分は酒を飲み始み始めるという暴虐ぶり。これを不服に思った処罰された兵は、劉岱の陣に駆け込み、張飛が酒を飲み酔っ払っていることを告げる。劉岱は勝機とみて攻めかけたが、張飛は待ち伏せをし、劉岱を生け捕りにしたのだった。張飛から報告を受けた劉備は酒を飲んでいたことをたしなめたが、張飛が飲んでいた酒甕を検めると、それは水であった。 劉岱敗北を知った曹操は、いよいよ自身で徐州へ攻めかけることにする。曹操軍の数と謀略に劉備と張飛は敗れ去り、行方をくらましてしまう。その頃関羽は、劉備の家族を守るため、1人下?(かひ)にいた。それを知った曹操は関羽の武勇と忠義を我がものにしようと張良を派遣した。関羽は、3つの条件を出し、劉備の行方がわかったら退転することを条件に投降した。 行方をくらましていた劉備は、やっとのことで袁紹のもとに辿り着き、袁紹に曹操討伐を決意させ、曹操も迎え撃つために出陣した。 対陣する両軍の前で、袁術方の将軍・顔良がその勇猛を奮う。顔良の前に手も足も出ない曹操は、顔良に匹敵する自陣の武将を出陣させることにした。

五関突破

曹操が顔良に匹敵すると考えたのは関羽。関羽をたきつけるため、呂布が乗っていた赤兎馬を関羽に与え、喜んだ関羽はこれを承知した。 曹操軍の前で挑発する顔良に、関羽は勢いよく切り込み、一刀のもとに顔良を切り捨ててしまった。顔良を失った袁紹軍は混乱し四散して逃げてしまう。 その後も曹操は関羽を重用し、関羽は期待に応えていった。関羽が曹操方に味方している事実を知った袁紹は激怒し、劉備を叱責した。しかし、劉備は平然と自分が説得すれば関羽はこちらの見方になると言い放つ。劉備は早速関羽に密使を送った。劉備が無事生きていることを知った関羽は、涙を流し喜び、すぐさま劉備の妻たちを引き連れ、劉備のもとに向かうことを決意する。 曹操もこれを止めようとせず、快く行かせてやった。 しかし、通行手形を持っていない関羽は関所で足止めを食らうことになる。曹操からの許可を得ていると説得するも、通行を許可されない関羽は、関所の将軍を強引に切り捨てて進む。   関羽が?水関の関所に着いた時、陰険な笑みを浮かべる?水関(しすいかん)の守備隊長卞喜(べんき)が迎えた。卞喜は関羽を歓迎し、鎮国寺に誘う。 鎮国寺の住職は、卞喜が暗殺するつもりでいることを密かに関羽へ知らせてよこした。

古城の再会

関羽は卞喜(べんき)に誘われるまま食卓の間に来たが、席には着かず近くにある幕を引き落とした。そこには武装をした兵士が関羽の命を狙っていた。卞喜の声と共に襲い掛かった兵士たちだが、卞喜共々関羽の返り討ちに会う。関羽は急ぎ鎮国寺を後にした。 陽(けいよう)の関所でも太守王植(おうしゅく)が陰謀を企てていた。快く関羽を受け入れる振りをして、関羽の宿舎を火攻めにしようとしていたのだ。しかし、関羽に敬服した王植の部下胡班(こはん)の密告により、関羽一行は何を逃れたのであった。 その後も関羽は付け狙われるが、難を逃れていった。夏侯惇(かこうとん)に狙われた際に、張遼が曹操直筆の通行手形を持って止めにやってきた。これでようやく曹操支配下の地を難なく進むことができるようになった。 一方、行方をくらましていた張飛は古城県にいた。曹操の親戚、夏侯家の嫁入りの輿が近くを通るとの報告を聞いた張飛は、この嫁入りの一行を襲うことにした。 新婦を迎えに出ていた新郎の一行に突如張飛が襲い掛かる。散り散りになった新郎一行をよそに、張飛が新婦の輿に近づく。中を覗き込むと、何と夏侯蓮(かこうれん)であった。張飛は夏侯蓮を抱きかかえ、その場を去った。抱きかかえられた夏侯蓮も幸せそうな笑みを浮かべていた。 関羽一行は古城の県境まで辿り着いた。古城を治めているのが張飛と知って、喜んで孫乾(そんかん)を使者に出す。城門から張飛を見て、関羽は喜び駆け寄るが、張飛は斬りつけて来る。驚いた関羽に、張飛は裏切り者と罵った。関羽の後ろには曹操の大将蔡陽(さいよう)の軍団が迫っていた。張飛は蔡陽を引きつれ攻めてきたと勘違いしたのだ。関羽は疑いを晴らすため蔡陽を倒した。ようやく疑いが晴れた関羽は、張飛と涙を流して抱き合った。 関羽と張飛は2人で劉備のもとに向かい、3人は無事再会を果たす。それに加え、猛将・趙雲にも偶然再会した。趙雲は公孫将軍が敗れてから、劉備を求め彷徨っていたのだ。劉備は仲間と再会を機に、袁紹のもとを離れた。

官渡の戦い(前編)

袁紹は劉備の離脱に不服を唱え、討伐を思案したものの、曹操討伐が先であると判断し、参謀の忠告も聞かず、大軍を出陣させることにした。 両軍とも大軍を引き連れ戦場で対峙した。曹操軍の不安は相次ぐ戦乱による食糧不足。短期決戦を望んだ曹操は果敢に攻めるが、袁紹の巧みな戦術により緒戦は袁紹軍が勝利し、曹操軍は官渡の砦まで退却する。 砦に入った曹操軍は固くこれを守っていたが、ある夜、突然砦の前に数十もの小山が出現し、その上にある櫓から雨のように矢が降り注いできた。慌てた曹操軍であったが、参謀の進言で設計された投石機により、袁紹軍もろともこの櫓を打ち壊し曹操軍の底力を見せ付けた。 一進一退の攻防戦が続いていたが、対峙して1ヶ月が過ぎた頃、既に曹操軍の食料は尽きかけていた。至急、食料を補給せよとの密書を送ったが、これが袁将軍方の将軍許攸に奪われてしまった。許攸(きょゆう)はその密書を携え、袁紹に今こそ攻めかけるべきと進言したが、以前許攸が曹操と友人であったことから、計略ではないかと疑われてしまうこととなる。落胆した許攸は袁紹を離れ、古き友人曹操のもとへ走った。 そして、許攸は曹操の傘下に加わり、袁紹攻略の術を告げることとなる

官渡の戦い(後編)

曹操は袁紹の兵站基地を狙った。兵站基地を焼き払われていることを知った袁紹は、一軍を兵站基地救援へ、また参謀郭図(カクト)の進言により張?(チョウコウ)と高覧率いる一軍を手薄となっているはずの官渡の砦へ派遣した。しかし、兵站基地を襲った曹操軍は少数であり、本軍は官渡にあった。袁紹軍は官渡で待ち伏せに遭い、散々に打ち破られた。また、兵站基地救援に向かった部隊も計略にかかり敗れ去った。 己の策が敗れ去ったことを知った郭図は保身を計り、官渡を攻撃した張?(チョウコウ)と高覧は曹操方に通じていると噂を流し、罪を2人に着せた。 濡れ衣を被せられた張?(チョウコウ)と高覧は仕方なく曹操に下り、曹操もこれを快く受け入れた。袁紹の兵站を断ったものの、依然情勢は曹操が不利である。その頃、曹操が最も信用する参謀・郭嘉(カクカ)が病魔に襲われていた。見舞いに来た曹操に郭嘉は生涯最後の策を授ける。 曹操軍は、兵站を失った袁紹軍の退路を断つと見せかけ、袁紹軍が二手に別かれ兵力が分散されるのを待った。すると、袁紹は期待通り軍を分けてしまう。この機を逃さず曹操は一隊ずつ袁紹軍を完全に壊滅させた。 しかし、この官渡の戦いを勝利に導いた参謀の郭嘉は、戦い半ばにしてこの世を去った。郭嘉の墓を前に曹操は1人涙する。

三顧の礼

官渡の戦いを制した曹操は、その勢いに乗じて南下し始めた。圧迫され始めた劉備であったが、徐庶(じょしょ)という冴え渡る軍師に出会った。徐庶の活躍により徐々に立て直し始めた劉備軍であったが、徐庶の存在を知った曹操は、謀略により徐庶を劉備から引き離してしまった。泣く泣く劉備のもとを離れることになった徐庶だが、別れの時、『臥龍先生』(がりゅうせんせい)こと諸葛亮(しょかつりょう)を次の軍師として推薦した。 劉備はすぐに諸葛亮を仲間にすべく動き出した。彼の住まいを訪ねたが、留守であり、面会を断念した。話に聞く諸葛亮の偉大さに、劉備は益々惹かれて行く事になる。 二度目は雪の中訪問した。しかし、弟の諸葛均(しょかつきん)には会えたものの、諸葛亮は不在であった。この日も落胆して帰途につく。 三度目、劉備は、関羽と張飛の反対を押し切って、またも諸葛邸を訪問した。すると、小間使いは諸葛亮が寝ていると言う。そこで、劉備は期待を胸に諸葛亮が起きるまで待つことにした。

軍師・孔明登場

日が傾きかけても、劉備は諸葛亮(しょかつりょう)の起床を、立ったまま待っている。すると不意に詩を詠む声が聞こえてきた。劉備の顔に喜色が表れた時、奥から諸葛亮が姿を現した。ようやくに面会が実現し、劉備は軍師として迎え入れたい旨をしきりに説いた。諸葛亮は拒絶していたが、ついに劉備の心に負け、軍師として加わる決意を固めたのであった。 一方、劉備の台頭に危惧を覚え始めた曹操は、夏侯惇(かこうとん)に10万の兵を与え、出陣せしめた。 それを知った劉備軍では、諸葛亮が軍師として最初の采配を執ることになった。諸葛亮は劉備から兵権を象徴する佩剣と印章を預かり、威厳ある態度で諸将に命令を下す。諸将は、諸葛亮の知略に疑いを持っており、信頼できないでいたが、とりあえず従い、諸葛亮の力量を計ることにした。 いよいよ曹操軍が攻めてきた。劉備軍を眺望した夏侯惇は、まとまりの無さに失笑し、勝利を確信していた。しかし、この時すでに諸葛亮の計略に陥れられていたのだ。その   計略とは、いかにもまとまりの無い趙雲と劉備軍が曹操軍と戦い、負けたと見せかけて退却する。そして追ってきた曹操軍に、関羽と張飛、そして退却した劉備、趙雲の軍が一斉に攻め込み、夏侯惇率いる曹操軍を壊滅させるというものであった。 そして、夏侯惇は劉備方の弱さに得意になり、深追いをして、10万の兵を無駄にし、命からがら敗退させられた。見事、諸葛亮の計略は成功を収めたのだ。  自分の計略の勝利を確信して、祝宴の用意をしていた諸葛亮が諸将の帰還を出迎えた。あまりにも見事に勝利した諸将は、諸葛亮に感服していた。そして、以後、全面的に信頼をし、従うことを誓った。 夏侯惇敗退を知らされた曹操は、ついに自ら大軍を率いて劉備を討つことを決意した。

一騎当千

劉備を攻める曹操のもとに密使が到着した。それは劉備が後方として頼みに思っていた荊州・劉表の部下宋忠であった。宋忠の報告によると劉表は既に病死しており、蔡夫人の謀略により、長男劉(りゅうき)を呉への防備として江夏に追いやり、自分が産んだ劉(りゅうそう)を長官として立て、曹操に従うつもりだという。 曹操は快諾し、後ろ盾が無くなった劉備を攻めんと、十万の兵を先発せしめた。 しかし、後に劉は曹操に暗殺されることとなる。 まもなく劉備軍も荊州の異変を聞くこととなる。そこで諸葛亮は新野で曹操軍の先鋒を蹴散らした後、襄陽に撤退することにした。しかし、見事曹操軍先鋒を打ち負かしたものの、襄陽の蔡は劉備を受け入れなかった。仕方なく劉備は、劉表の長男劉を頼り江夏を目指すことにする。 劉備を慕い付き従う一般庶民を連れての逃避行は困難を極めた。絶えず追っ手を振り払いながら、徒歩の庶民に合わせて移動する。 劉備の家族の護衛を頼まれた趙雲であったが、劉備の2人の夫人とはぐれてしまった。これを探しに単騎、敵軍の包囲の中へ突入する。ようやく甘夫人を見つけた趙雲は馬を手配し、張飛に護衛させ劉備のもとにおくらせた。 もう1人の糜夫人(びふじん)は劉備の1人息子阿斗を抱いて瓦礫の下で発見されるが、まだ息はあるものの、趙雲の足手まといなってはならぬと意を決し、阿斗を趙雲に託し、自ら命を絶ってしまった。 趙雲は曹操軍が取り囲む中、阿斗を守りながら孤軍奮闘を続ける。その様子を丘の上から望んでいた曹操は、趙雲の勇姿に惚れ込み、是非傘下にと考えていたが、趙雲は包囲網を突き破り単騎彼方へ去って行った。

長坂坡の戦い

趙雲は未だ追撃されていた。そこへ、張飛が助けに来た。張飛はたった1人で吼えたのだが、その声は大軍を萎縮させてしまった。また、曹操は以前関羽から張飛の武勇を聞いていたため、むやみには打って出ることができない。ようやく曹操軍の追手を食い  止めることができた。 趙雲は劉備のもとに無事に阿斗を送り届けた。しかし、曹操軍の追手がまたも襲いかかってくる。劉備軍は決死の防衛をしており、一歩も譲らない。諸葛亮の計略を慮り、曹操はついに退却を余儀なくされた。ようやく一息ついた劉備のもとに、劉?(りゅうき)が現れ、江夏への避難を勧めた。 曹操は呉の孫権と劉備が同盟を結ぶことを恐れ、先に孫権と同盟を結び、まずは劉備を打つ決意を固める。そして、百万の軍勢を率いて劉備が逃げ込んだ江夏へと向かった。 しかし諸葛亮は悲観的ではない。孫権と同盟を結び、共に曹操と戦うつもりである。孫権からの使者魯粛(ろしゅく)をあしらい、自らは孫権を説得しに呉へ赴いた。 呉の孫権は混乱していた。曹操と劉備を天秤にかけ、自国の安泰を計っている。そこへ魯粛が現れて、諸葛亮を伴ってきたことを告げ、孫権との面会を説得した。

赤壁・孔明の舌戦

面会の前に、孫権は諸葛亮を参謀たちに合わせた。議事堂に通された諸葛亮は孫権の参謀たちとの舌戦を見事に制し、孫権と面会した。孫権は諸葛亮の言葉に心を動かされていた。しかし、まだ曹操との決戦に踏み切れないでいる。そこで、諸葛亮は呉国外交責任者の周瑜(しゅうゆ)に持ちかけることを助言した。 周瑜も判断しかねていた。開戦派、反対派の双方にどちらともいえない返事をしている。しかし、周瑜との面会のおり、諸葛亮は何も知らない素振りで、開戦せずに呉を守り抜くためには、絶世の美女と歌われる大喬と小喬の姉妹を曹操は望んでいるため、この二喬を差し出すしかないと告げたのだ。この一言で周瑜の心は決まった。激怒した周瑜は開戦に踏み切った。大喬は亡き孫権の兄孫策の、小喬は周瑜の夫人であったからだ。 周瑜に開戦を勧められた孫権は、自らを奮い立たせるかのごとく、宝剣で机を叩き切り、歯向かう者はこの机のようになると諸将に告げ、周瑜を大都督とし全権を任せた。こうして諸葛亮は筋書き通り、孫権と曹操を対峙させることに成功した。 諸葛亮と接するうちに、周瑜は諸葛亮の才能が恐ろしくなり、のちのち呉国の大敵となると感じ始めた。そこで、呉に仕えている諸葛亮の兄・諸葛瑾(しょかつきん)を介して、仲間に引き入れることにした。しかし、如何に実兄であろうとも諸葛亮の忠義を曲げることはできなかった。 それを知った周瑜は、諸葛亮の暗殺を胸に決意する。

赤壁・周瑜の陰謀

周瑜は諸葛亮暗殺を決意するものの、曹操に立ち向かっている今は、その人材を生かすことにした。周瑜が曹操軍の兵站基地を攻撃しようとするのに対し、諸葛亮は呉の水軍を生かす戦いをするように仕向けた。 こうして、周瑜は曹操の水軍と対峙した。水上船を得意とする呉軍は、将軍甘 寧(かんねい)を中心に曹操軍を襲撃し、見事に勝利し、曹操軍は退却した。 その夜、周瑜は曹操軍の水軍を偵察しに行った。そこで周瑜は曹操軍水軍の陣形を見て、指揮をとる蔡瑁(さいぼう)と張允(ちょういん)がなかなかの人物であると知り、危惧を覚えた。 曹操軍陣営では曹操が呉軍の水上戦の強さに暗い面持ちになっている。その彼に蒋幹(しょうかん)は、周瑜と自分は親友であり、投降を勧めてくると告げた。 周瑜は蒋幹を盛大に迎え入れる。周瑜は彼の来訪目的を見通しており、最初に投降の話はするなと釘を刺す。酒宴の席を設け、周瑜は大いに酔っ払う。蒋幹は周瑜の密書を発見した。そこには、蔡瑁と張允が周瑜と通じていることが明記されていた。 これが偽の密書だとは知らず、蒋幹は急いで曹操陣営に戻り、曹操にこのことを告げた。激怒した曹操は、有能な蔡瑁と張允を処刑してしまい、周瑜の謀略は成功した。 曹操軍の水軍の大将が于禁と毛(もうかい)に代わったことを知った周瑜は大いに喜ぶが、ふと思いつき、魯粛に諸葛亮の動向を探らせにやった。

赤壁・十万本の矢

諸葛亮は蔡瑁・張允(さいぼう・ちょういん)の失脚の全てを見通していた。魯粛からそのことを告げられた周瑜は、益々諸葛亮を恐ろしく感じ、都合良く抹殺する方法を思案する。 周瑜が考え付いた諸葛亮抹殺計画は10日以内に10万本の矢を用意するという無理難題を押し付け、用意できない、もしくは逃げ出した場合に諸葛亮を処刑するというものであった。すると、諸葛亮は平然と難題を受け、しかも3日以内に用意すると言い、誓約書まで交わしてしまった。 周瑜は諸葛亮が逃げ出すと思いこみ、逃走阻止に対する万全の措置を取った。 諸葛亮は、2日目の霧の濃い夜に突然、24艘の船を出した。諸葛亮を敬服し心配している魯粛は逃走するためとばかり思ったが、船は曹操軍目がけて突進していく。 曹操軍の前まで来た諸葛亮は開戦の合図を鳴らす。曹操軍は奇襲だと思い、押し寄せる呉軍船に対し、弓を引き絞り、一斉乱射を始めた。曹操軍の弓は次々に呉軍船に突き刺さる。その時、諸葛亮は何もせず、ほくそ笑みながら魯粛と酒を酌み交わしていただけであった。船全体に矢が突き刺ささると、退却の号令が発せられた。 諸葛亮はこの日に霧が出ることを見通していた。そこで、奇襲に見せかけ、視界の悪い濃霧のために曹操軍が矢を乱射するのを見越し、それを回収するという手段にでたのだ。 翌朝、周瑜はいよいよ諸葛亮を捕らえようと息巻くが、諸葛亮は10万本を超える矢の用意ができていた。周瑜は呆気に取られながら、笑顔で取り繕った。 数日後、周瑜は曹操軍を破る妙計を思索している。諸葛亮の知謀の偉大さを再認識した周瑜は、2人でお互いの考えを手のひらに書き、見せ合うことにした。彼らの手には「火」の文字が書かれていた。 その時、周瑜のテントに曹操に殺された蔡瑁の一族、蔡和と蔡中が投降してきた。蔡瑁を殺された復讐をしたいという。周瑜は快諾したが、テントを去る2人を冷笑しながら見送った。

赤壁・苦肉の計」

呉軍テント内で周瑜(しゅうゆ)が諸将に命令を下している。しかし、老将黄蓋(こうがい)が異議を唱えた。これに腹を立てた周瑜は、黄蓋を棒叩きの刑に処し、とりなした甘寧(かんねい)をも侮辱した。この光景を、曹操方から投降してきたばかりの蔡和・蔡中(さいか・さいちゅう)がつぶさに観察している。 作戦会議後、魯粛は諸葛亮に黄蓋の件で不満を漏らした。すると諸葛亮は、あれは全て演技であったと答える。周瑜と黄蓋の魂胆を看破していた。 傷だらけの黄蓋のもとに、参謀沢(かんたく)が訪れた。沢も演技であったことを見通していた。黄蓋は彼に曹操への書簡を手渡し、密使として送りこんだ。 黄蓋からの書簡を読んだ曹操だが、黄蓋の投降に疑念を抱く。弁舌の沢が巧みに曹操を丸めこみにかかる。丁度そこへ、蔡和・蔡中からの密書が届き、周瑜の黄蓋処罰の事実を告げる。このことで真実味を感じた曹操は、ついに黄蓋投降を承知した。 呉軍に帰った沢は、蔡和・蔡中をいぶり出すことにした。蔡氏兄弟は甘寧を見張っていた。そこでテント内で、甘寧と沢はわざと周瑜への不満を口にする。蔡氏兄弟は罠とも知らず、テントに入って行き、自分たちは曹操の密偵だと告げ、甘寧・沢・黄蓋の曹操軍投降を信用してしまった。そして、兄弟は密書にて曹操にこのことを告げた。 それでも曹操は、まだ呉軍諸将の投降を信じ切れていない。そこで蒋幹(しょうかん)をまたもや派遣し虚実を探らせることにした。 蒋幹が周瑜を訪れると、周瑜は前回の来訪時に密書を盗んだことを攻め、西山へ追放してしまう。仕方なく西山に向かう蒋幹は途中、諸葛亮に並ぶと称される?統(ほうとう)と出会った。 ?統は周瑜をさげすみ曹操のもとへ行きたいという。蒋幹は喜んで?統を曹操に引き合わせた。?統は陣営を見たいと願い出た。曹操が水軍を紹介したとき、?統が優れた軍医がいるか質問した。慣れない北方人が船に乗る場合、軍医が必要だという。事実、曹操軍は病に悩まされていた。唯一の解決策は船を繋ぎ合わせ陸の様にすることであると?統は加えた。すると曹操は、?統の策を取り入れるよう指示を出した。 ?統は呉軍の諸将の投降を説得しに行くといい、一度呉軍に帰ることとなる。?統は作戦の成功に満足していた。曹操に吹き込んだことは全て周瑜と打ち合わせたことであったのだ。 しかし、満面の笑みで船に乗り込む?統は突然、徐庶(じょしょ)に引き止められ驚く。彼は、黄蓋・沢の謀略、?統の計略の全てが火攻めを行うためだと見通していたのだった。

赤壁・東の風

自分の謀略に気付かれた統(ほうとう)は、徐庶(じょしょ)を殺そうとした。しかし、徐庶は曹操軍を抜けたいという。安心した統は曹操軍を抜け出す策を与え去って行った。曹操軍で西涼にいる馬騰(ばとう)が反乱を起こしたという噂が流れた。徐庶は西涼の守りを願い出て、曹操は了承した。実は徐庶は自ら噂を流し、曹操軍を抜け出すことに成功したのだった。 曹操水軍では統が授けた軍船連結の策がついに完成し、曹操は大満足している。参謀の程(ていいく)は火攻めを心配していたが、曹操は立秋過ぎのこの時期に自軍に不利な東南の風が吹くはずが無いと高をくくっていた。連結軍船の上で盛大な酒宴を催し上機嫌の曹操であった。その連結軍船を対岸に眺めながら、周瑜は憂鬱であった。黄蓋と沢、そして統の謀略が全てうまくいったものの、火攻めの際肝心の風向きが良くない。南風のまま火攻めを行うと自軍に被害が出てしまう。何としても東南の風が欲しいのである。思い悩んでいた周瑜は突然血を吹いて倒れてしまった。 その頃、諸葛亮は劉備の密使と面会しており、手紙を手渡していた。密使が去った後へ、魯粛が現れ、周瑜が倒れたことを告げた。周瑜のテントに訪れた諸葛亮は既に病の原因を看破していた。東南の風のことを思い悩むことからくる心労だという。そこで諸葛亮は自分が東南の風を吹かせると約束した。 諸葛亮は七星壇に祈祷姿で現れ、風請いの儀式を始めた。しかし、一向に風は吹かない。周瑜は失望し始めていた。そこへ甘寧が蔡兄弟を逮捕したことの報告に現れた。周瑜は2人を処刑するよう命じ、ここに曹操方の密偵は始末されることとなる。 諸葛亮を信じたことを後悔し、周瑜は完全に東南の風を諦めてしまった。しかし、突然一陣の風が吹いた。それは東南の風であった。周瑜は風になびく軍旗を眺めつつ冷笑すると、諸葛亮抹殺の命令を下した。命令を受けた丁奉と徐盛は七星壇に急行するが既に諸葛亮の姿はなかった。諸葛亮は風が吹いたら周瑜が自分を抹殺すると見越しており、劉備軍に逃走の手配をさせておいたのだ。 諸葛亮逃亡を知らされた周瑜は驚くが、風が吹いている今が好機と見極め、曹操軍攻撃を指揮し始めた。逃亡した諸葛亮は無事に荊州の劉備軍に合流し、すぐに決戦が始まり必ず周瑜が曹操に勝つ旨を諸将に告げ、次々と軍令を下した。 その頃、曹操のもとに密書が届き、曹操は喜悦の表情になる。黄蓋が今夜投降すると知らせてきたのであった。

赤壁・勝敗決す

黄蓋(こうがい)投降に喜ぶ曹操は、東南の風が吹いていることに気付いた参謀程(ていいく)の注意も聞かず、大喜びであった。そこへ、黄蓋が船に乗って近づいてきた。その船隊を見た程は色を失う。黄蓋が投降する気がないことを船隊から見て取ったのだ。曹操も慌て始めるが、既に後の祭りであった。黄蓋の船隊は火を放ち、巨大な曹操の連結軍船は火の海となった。 逃げ惑う兵士に混じり、曹操も狼狽した。張遼が曹操を助け起こし、必死に活路を見出そうとする。そうして命からがら陸へと辿り着くが、呉軍の追手、伏兵が追い詰める。そこへ、徐晃一隊が助けに入り曹操は張遼に守られ長江を後にした。赤壁の闘いに曹操は完敗したのであった。曹操は明らかに落胆を隠せない。しかし、呉軍の追手を振り切ると安堵し、辺りを見回して大笑する。そこの地形は曹操軍に明らかに不利であった。にもかかわらず伏兵を置かない周瑜を嘲笑したのだ。 すると突如大声が聞こえてくる。趙雲が一隊を率いて現れ、攻めて来たのだ。驚いた曹操は一目散に逃げ出した。 一晩中逃げ回った曹操軍は疲れきっている。そこで、ある村で休憩することにした。すると間もなく、後方から許楮と李典が参謀たちを連れて合流してきた。喜んだ曹操は、まともや突然大笑し始めた。数時間前には諸葛亮の伏兵趙雲に肝を冷やしたが、この村の地形も曹操軍に不利なのだが、ここに伏兵を置かない周瑜、諸葛亮を嘲笑したのだ。 その大笑を張飛の大声がかき消した。諸葛亮はここにも伏兵を置いていたのだ。諸将が張飛を止めている間、曹操は慌てふためき逃げ出した。 張飛も何とか逃げ切ると、2本の分かれ道が現れた。片方の狭く険しい道には煙が昇っている。伏兵がいるらしい。しかし曹操はそれが諸葛亮の罠であると見て取った。そして敢えて狭く険しい道を選んで進みだした。 しばらく進むと、少し開けた空き地があった。そこで曹操は大笑する。張遼は悪い予兆とばかりに諫める。曹操はここに伏兵を置かれたら、自軍は全滅であったという。今度は涙まで流して大笑いしていた。 その時、砲声が鳴り響く。色を失った曹操の前に、赤兎馬にまたがり、青龍偃月刀を持った関羽が、微笑を浮かべ立ちはだかる。

南郡侵攻

兵士も馬も疲れ果てているのを見た曹操は、関羽に情けを請うことにした。信義を重んじる関羽は迷った挙句、以前の恩を重んじ、ついに兵を退いてしまった。難を逃れた曹操は僅かな供回りを従えたのみであったが、南郡を守る曹仁に助けられ許都へと帰っていった。帰り際、曹操は錦の袋を曹仁に渡し、緊急時に開ける様に指示した。 劉備のテント内では、劉備と諸葛亮が戦勝報告を受けている。数々の諸将が報告をする中、関羽は自ら死罪を申し出る。曹操を逃がしたことを知った諸葛亮は処刑しようとするが、諸将の請いにより押し留め、今後の功績によって償わせることにした。 赤壁の闘いに完勝した周瑜は大軍を率いて南郡を奪いに来た。しかし、劉備軍が南郡近くに待機していた。訝しく思いながらも劉備が催した赤壁の戦勝祝いの酒宴に出席した周瑜は、率直に劉備が南郡を奪うつもりなのか尋ねた。劉備は周瑜がいらないなら占 領すると答える。そこで周瑜は自分が南郡を占領している曹仁に負けたら劉備が取っても良いと約束をした。周瑜の南郡攻めが開始された。曹仁は奮闘していたが、苦戦していた。そこで、曹操が置いていった錦の袋を開けることにした。そこには曹操の妙計が記されていた。周瑜は南郡城に戦意がないのを見て取って、一気に城攻めを決意した。城門に押しかけ、逃げ惑う曹仁軍を追い込み、城内に突入した。息を潜めていた曹仁軍が弓を番え一斉に射かけた。周瑜は曹仁軍の猛将・牛金の矢にあたり、退却を余儀なくされる。周瑜を射た矢には毒が塗ってあった。軍医は怒れば傷口が開いてしまうという。周瑜軍は仕方なく砦に籠城することとなった。砦前で牛金が周瑜軍を罵る。怒った周瑜は砦から討って出るが血を吐いて倒れた。しかしそれは演技であり、曹仁軍の夜襲を誘った。果たして曹仁は夜襲を行った。砦内まで進入した曹仁は罠であることに気付くも、呉の大軍が四方から攻め寄せ、多くの兵を失ってしまった。曹仁軍は南郡防衛を諦め、襄陽に退いていった。上機嫌で南郡城下に足を踏み入れた周瑜であったが、突然、南郡城壁に無数の劉備軍の旗が立った。劉備が先に占領してしまったのだ。激怒した周瑜は城攻めを開始するが堅く守られており退却した。 周瑜は、堅い守りの南郡は後回しにして荊州と襄陽を攻め落とすことにした。しかし、張飛と関羽が既に占領したとの知らせが届く。激怒した周瑜は、今度こそ本当に倒れてしまった。

劉備の結婚(前編)

諸将が見守る中、周瑜は一命を取り留めた。すぐさま荊州、襄陽を武力で持って取り返そうとするが、参謀の魯粛と程普の進言を容れ、劉備に道理を説き取り返すことにした。劉備のもとを訪れた魯粛は荊州の明け渡しを迫ると、諸葛亮は荊州のもと長官劉に返すべきだと主張したが、病中の劉が他界したのちに呉へ明け渡すと約束した。 この報告を聞いた周瑜は納得できず、すぐにでも攻めかかろうとしたが、参謀たちの勧めで柴桑にて療養することとなる。傷が癒えた周瑜は小喬との別れを惜しみながら、すぐさま戦場に戻る。戦況は、曹操が支配する合肥を孫権が攻めていたが阻止され、劉備軍は桂陽、武陵、長沙を支配し、名将・黄忠を傘下に加えていた。荊州の劉は他界しており、魯粛が明け渡しを迫ったが、劉備軍が西川を平定後に明け渡すとの答えであった。戦況を聞いた周瑜は不満であったが、劉備の妻が他界したと聞いて妙計を思いついた。孫権の妹と劉備の婚儀を整え、劉備が出向いたところを拘束し、人質として諸葛亮に荊州明け渡しを迫るつもりである。呉の特使から縁談の話を聞いた劉備は暗殺を危惧するが、諸葛亮は大笑いして受諾を勧めた。諸葛亮曰く、暗殺どころか劉備は新妻を手に入れ、荊州を奪われる心配もないと言う。 劉備は婚儀を受け、南徐に向かうことになる。諸葛亮は供をする趙雲に3つの錦袋を渡し、袋に入っている計略通り事を進めるよう指示し、自らは荊州に居残ることにした。 南徐についた趙雲は、早速1つ目の錦袋から諸葛亮の指示を実行した。それは南徐の住民全てに、孫権が妹を劉備に嫁がせようとしていることを知れ渡らせることである。また、劉備に大喬と小喬の父親である喬国老のもとへあいさつに行かせた。 孫権の母親、呉国太を喬国老が祝いを言いに訪ねた。何も知らなかった呉国太は激怒し、孫権を呼びつけ叱りつけた。しかし、既成事実が世に明るみになっているため、取りやめることもできない。そこで呉国太は劉備を直接見極め、娘に見合う相手か判断すると言い出した。孫権は甘露寺にて劉備と呉国太を引き合わせる予定だが、待ち伏せをして劉備を暗殺することにしたのであった。

劉備の結婚(後編)

甘露寺には暗殺者が待機している。劉備は趙雲率いる兵士に護衛されながら甘露寺に到着した。劉備に面会した呉国太は、娘に見合う人物だと劉備を評し、喬国老も賛同した。すぐさま開かれた歓迎の宴では、劉備、喬国老、呉国太が和やかに談笑しているが、孫権はやけ酒をあおっている。趙雲は甘露寺内の只ならぬ雰囲気を感じ警戒していたところ、暗殺者を発見した。劉備に耳打ちすると、突然劉備は涙を流して自分を早く殺せと叫びだした。暗殺者が甘露寺にいることを知った呉国太は激怒し、孫権を責め、劉備を護るため自邸に住まわせることにした。呉国太の庇護のもと、劉備と孫権の妹・玉錦(ぎょくきん)は結婚した。ここに周瑜の計画は完全に狂ってしまったのだ。しかし、周瑜は諦めなかった。劉備を栄華に浸らせ、骨抜きにしてしまい、その間に荊州に進軍する計画を孫権に伝えた。そこで孫権は、劉備に贅沢な生活を遅らせた。 果たして劉備は贅沢に溺れ、趙雲に会おうともしなくなった。危機を感じた趙雲は諸葛亮から受け取った2つ目の錦の袋を取り出し、指示を仰いだのであった。 趙雲が客間で劉備を待ち受けていた。緊迫した様子の趙雲は、曹操が50万の兵を連れて荊州に進軍していることを告げる。劉備は焦り、荊州に戻る決意を固めた。 新妻に嘘の言い訳をして荊州に連れて帰ろうと考えていた劉備であったが、玉錦は全てを見通していた。その上で玉錦は、呉国太や孫権を欺いてでも劉備について荊州に赴く決意をする。こうして劉備は玉錦を連れ荊州ヘと出発した。劉備が逃走したことを知った孫権は、諸将に追わせた。また、周瑜も劉備が逃走することを見越して伏兵を置いていた。追い詰められた劉備一行であったが、趙雲が最後の錦の袋を取り出し、諸葛亮の指示を見た。それは、幼少から武芸に親しんでおり、更に孫権の妹、呉国太の娘である玉錦に、諸将が歯向かうはずはなく、彼女に諸将を追い返させるというものであった。玉錦を目の前にした諸将はなすすべもなく、引き返す羽目になった。しかし、孫権は玉錦諸共劉備を抹殺する追手を出しており、引き返してきた諸将も再び劉備たちを追った。 長江までやっと辿り着いた劉備は、船で迎えに来ていた諸葛亮を見つけ眉が開く。後ろから砂煙を挙げ追ってくる呉の諸将たちを見つけるが、素早く船に乗り込み岸を離れて呉を脱出した。諸葛亮は荊州の危機というのは劉備を荊州に戻すための嘘であったことを告げた。しかし、周瑜が艦隊を率いて追ってきた。諸葛亮は船を岸に着け陸路で逃走させた。その陸路には関羽率いる一隊を伏兵として配置しており、それと知った周瑜は泣く泣く追撃を諦めた。激怒した周瑜は大声を発した後、胸を押さえその場に倒れ伏してしまった。

周瑜の死

曹操の陣営では、弓矢の腕を競う大会が開かれていた。諸将たちは賞品である錦のひたたれを奪い合っている。そこへ程が現れ、劉備と孫権が荊州を奪い合っていることを告げた。曹操は皇帝の名を借りて周瑜を南郡太守に任じ、劉備と全面的に争わせることにした。療養しながら、それを知った周瑜は、劉備との開戦を避けたいという孫権の意思を汲み、魯粛を派遣し荊州の返還交渉を試みた。魯粛を迎えた諸葛亮は、西川を取ったら荊州を返還するという以前の約束を持ち出した。しかし、西川を統治しているのは劉備の親戚、劉璋であり、兵を挙げて西川に攻め入るには忍びなく、だからと言って荊州を返さなければ劉備の義兄となった孫権に申し訳がなく、困り果てている状態であると告げた。仕方なく引き上げてきた魯粛は、周瑜に諸葛亮の言葉を伝えた。周瑜は体裁のいいことを言う諸葛亮の魂胆を見抜いていた。そこで劉備が攻めるに忍びないと言う西川を呉が落とし、玉錦の嫁入り道具として劉備に与える代わりに、荊州を呉に返還させることを魯粛から劉備に伝えさせた。 それを聞いた諸葛亮も周瑜の謀略を見抜いていた。西川を攻めるという名目で荊州を通過すると言いつつ、そのまま荊州を占領するつもりであると直感した。しかし、妙計を思いつき、魯粛に快諾の返事をした。諸葛亮の返事を聞いた周瑜は大軍を率いて荊州に到着する。劉備は使者を遣わし、荊州東門外で慰労の宴を催す旨を伝えさせた。周瑜は東門まで着くが、城門は閉じたままである。すると、趙雲が城楼に現れ、周瑜の謀略は全て筒抜けであり、荊州に入れる気はないと叫ぶ。更に周瑜方の斥候が、四方から関羽・張飛・黄忠・魏延の軍が攻め寄せてきていることを告げた。周湯は激怒し大声を発するが、またも倒れ伏してしまった。周瑜は船室で諸将に見守られ横になっている。そこへ諸葛亮から手紙が届いた。周瑜が遠く西川に攻め入るのは困難であり、その間に曹操が江南に攻めかけてくる危険を言って寄越したのだ。周瑜は落胆し、ため息を漏らした。そして、諸葛亮と同時代に生まれたのを恨みながら、この世を去った。 周瑜の死を知った諸葛亮は、危険を顧みず自ら弔問に赴く決意をした。呉軍では周瑜の遺言により魯粛が都督に就任している。諸葛亮の弔問と聞いて諸将は暗殺をほのめかすが、魯粛が制止し、諸葛亮を迎え入れた。諸葛亮は周瑜の棺を前に、涙を流しながら、良き好敵手の死を悲しみ、心からの弔辞を捧げた。その光景を見ていた呉の諸将は感動に目を濡らし、剣の柄から手を離した。魯粛も小喬も感服していた。 劉家と呉の友好を願う小喬に別れのあいさつをして、諸葛亮は静かに去って行った。

馬超起つ

曹操は周瑜の病死を知ると、再び呉陣営へ攻め込もうとした。そこで、西涼の馬騰(ばとう)が虚をついて攻めてくるのを防ぐため、許昌へ招いて殺害した。馬騰の息子・馬超(ばちょう)と、馬騰と義兄弟の韓遂は報復を誓い、西涼の全軍を率いて潼関(どうかん)の関所に攻め寄せてきた。 曹操は自ら軍隊を率いて潼関に向った。しかし、馬超は曹操が到着する前に潼関を落していた。関所前に両軍が対峙した。馬超の突撃と共に開戦する。馬超は名乗りを挙げて曹操を執拗に追い回す。曹操は逃げ回るが援軍により一命を取り留めた。 馬超は次こそ曹操を逃さんと、援軍を西涼から呼びつけた。それを悟った曹操は手薄となった西涼を奇襲するため、2万の兵を曹洪に与え出陣させた。 曹操が馬超軍を分断するため、自陣を移そうと渭水を渡っていると、またも馬超が攻めかけてくる。許楮が曹操を助け、その場を何とか切り抜けた。何もない場所に土の砦を作り上げ守りを固めた曹操は、馬超軍を偵察に行ったが、またも馬超に狙われ退却する。自軍の諸将では馬超に敵わないと漏らす曹操の言葉に許楮は白目をむいていきりたち、馬超との一騎打ちを願い出た。明くる日、許楮は馬超と一騎打ちを行った。双方とも実力伯仲であり、日が傾きかけても勝負がつかない。とうとう馬が疲れてしまい、2人は馬を取り替えて戦い合う。韓遂は頃合いを見計って、突然曹操軍に奇襲をしかけた。曹操軍はまたも退却を余儀なくされてしまった。馬超にやられ放題の曹操であったが、曹洪の西涼進軍の成功を耳にすると、馬超と韓遂を仲違いさせる作戦に踏み切った。 両軍が対峙する中、曹操は大声で韓遂を呼び出した。韓遂がただ一騎で前に出ると、周りには聞こえない声で他愛もない話をし始める。それを見ていた馬超は韓遂の謀反を疑い始めてしまっていた。そして曹操は仕上げの行動に出た。曹操は韓遂に所々黒く塗り潰した書状を送りつけたのだ。韓遂はわけがわからなかったが、馬超が曹操から書状が届いたことを聞きつけ、それを検めにきたところ、所々黒く塗り潰してあるのを見て、謀反の情報を韓遂が塗り潰したのではと韓遂を疑い、その場を去って行った。 韓遂のテント内では、武将の侯選が馬超の暗殺を勧めている。疑われた今は馬超を曹操に引き渡すしか生きる道はないと説いているのだ。そこへ一振りの剣がテント入り口の垂れ布をまくり上げた。

張松の地図

怒りを露わにした馬超が、韓遂のテント前に立っていた。自分の暗殺を韓遂に勧めていた武将を次々と斬り倒していく。韓遂をも彼は斬りつけた。テント外へ逃げる武将を追いかけると、韓遂の部下が次々と馬超に攻めかけてきた。そこへ弟の馬岱と徳が助けに入り、馬超軍対韓遂軍の争いが起こった。すると突然許が目の前に現れる。曹操軍が大軍を率いて攻めて来たのだ。全てが曹操の罠だったとは気付く間もなく、馬超は撤退を余儀なくされ、隴西へ逃れた。 一方、韓遂は腕を切り落とされたものの一命を取り留めた。そして曹操に投降し西涼侯に任じられた。そして曹操は劉備や孫権が動き出すのを恐れ、許昌へと引き上げていき、馬超の乱は終結を迎えた。 劉備軍はというと、諸葛亮が四郡の巡視に出ている間、臥龍・諸葛亮と勝るとも劣らない鳳雛と称される統が訪れた。彼が鳳雛であると気付かなかった劉備は、彼を県令に任じたのだった。しかし統の類まれなる知性を知るや、副軍師として迎え入れた。 その統の勧めもあって、劉備は許昌を訪れている張松を見張ることにした。 張松は西川の劉璋の参謀であり、西川は張魯の侵略を受けており、曹操に助けを求めるため、張松は許昌を訪れたのであった。しかし、許昌の諸将や曹操に会うと、その仁義、徳の無さに張松は幻滅する。西川を援護してくれたなら、後々西川を曹操に譲渡しても良いとまで考えていただけに、彼の落胆は激しかった。許昌から追い返された張松は、荊州の入り口で足を止める。趙雲が馬に跨り向ってきたのだ。そして張松の前で止まると、劉備の命令で迎えに来たことを告げる。戸惑いながら趙雲に付いていくと、劉備を始め諸将の手厚い歓待が待っていた。3日連続の歓待を受け、また諸将や劉備の人徳に触れ、張松はすっかり感激しきった。自分の領地を持たないという劉備に対し、西川の益州を劉備のものにしてはどうかと勧めたが、劉備は固く辞す。 別れの日、劉備は諸将を率いて張松を見送った。張松は懐から軸物を取り出し、それを劉備へと手渡した。その軸物には西川の詳細な地図が描かれていた。この光景を見て、諸葛亮は会心の笑みを浮かべた。

劉備、蜀に入る

劉璋(りゅうしょう)のもとへ帰った張松は劉備を招き入れるよう説得する。そして劉璋からの正式な依頼が劉備のもとへ届いた。そこで劉備は統(ほうとう)を連れ西川救援へと向った。これに感付いた孫権は荊州への出兵を計画する。しかし、呉国太が現れ娘玉錦の身を案じ激怒した。そこで張昭が孫権に入れ知恵をし、まずは玉錦と劉備の子の阿斗を連れ帰ることにした。 周善が玉錦を訪れ、呉国太が重病であるため、阿斗を連れて見舞いに来て欲しいと伝えた。玉錦は信じ込み、周善に言われるまま呉に帰ることにした。 船で岸辺を離れようとした時、趙雲が駆けつけてくる。周善以下呉軍が攻め懸ける中、張飛の助けもあり、周善を斬り倒し阿斗を奪ってしまった。玉錦は1人で帰ることになった。 周善が斬り倒されたと聞き、孫権は荊州に攻め入ろうとするが、そこへ曹操出兵の知らせが届く。赤壁の仕返しをしに、江東へ攻めかけてくるという。仕方なく、孫権は曹操を迎え撃つことになった。 この戦いで曹操は序盤から劣勢であったが、1ヶ月も戦った結果、呉からの講和を受け入れ、兵を退くことになる。 その頃、西川では張松が処刑された。彼は密かに劉備と結託して西川を奪う計画を巡らしていたのだ。その結果、劉璋は劉備を西川に入れまいとした。そこで、劉備はついに西川攻撃に出た。劉備軍は統の指揮により連戦連勝を重ね、勢いに乗じて兵を二手に分けらく城(らくじょう)を奪おうとしていた。1隊を劉備が、もう1隊を統が指揮を執る。統が道を進んでいる時、ふと現在地を訪ねた。そこは、落鳳坡(らくほうは)という所であった。鳳雛(ほうすう)と称される統が不吉に思った刹那、密林から伏兵が現れ、何本もの矢が統に突き刺さり、鳳雛は落命してしまった。 荊州にいる鳳雛落命の知らせを聞くと、諸葛亮は声を失った。しかし劉備の身を考え、すぐさま張飛と趙雲を連れ西川へ赴くことを決意する。留守となる荊州は、北の曹操は拒み、東の孫権と協力せよとの言葉を残し、関羽に守らせることにした。

武将・厳顔

陸路を行く張飛は諸葛亮から罪なき庶民を傷つけないよう命令されていた。張飛は、庶民のいない山路を選び、劉備との合流を急いだ。 巴城(はじょう)についた張飛であったが、城を守る老将厳顔(げんがん)は得意の弓を持って頑強に抵抗する。数日攻め寄せてみたが一向に城は落ちなかったが、張飛は妙計を思いついた。柴を刈りながら城の裏道を探ると見せつつ、厳顔の密偵が紛れるのを誘った。そこへまんまと密偵が紛れてきた。すると張飛は密偵が紛れていると知りつつ、夜半に裏道から巴城を攻めると下命を下した。 密偵から裏道からの城攻めを聞いた厳顔は、自ら兵を率いて、裏道で張飛軍を挟み撃ち殲滅する作戦に出た。夜半に張飛が裏道に現れた。その時を逃さんと厳顔は張飛を包囲したが、それは影武者であった。すると突然後ろから本物の張飛が現れ、厳顔はたちまち包囲され、生け捕りとなってしまった。 巴城に入城した張飛の前に、厳顔が引きずられて来た。反発する厳顔に対し、張飛は礼を尽くし敬った。その行為に感動した厳顔は劉備軍へ服従を誓い、張飛へ助力することを決意した。 劉備軍へ合流するためにはいくつもの関所を越えなければならない。しかし厳顔は先鋒を務め、関所の将軍たちを次々と投降させたため、難なく劉備軍へ合流することができた。水路をとった諸葛亮も遅れて劉備軍に合流した。 戦力の整った劉備軍は城(らくじょう)を落す計画に出た。諸葛亮の計略により、城を守る張任を城から誘き出し、城を簡単に落した。 いよいよ劉備軍は劉璋の本拠地成都に向うこととなる。しかし、劉璋は張魯(ちょうろ)と同盟を結び、張魯に加わった馬超を先鋒として攻めかけて来ていると言う。馬超の勇猛さを知る諸葛亮は、関羽を呼び寄せて戦わせる旨をわざと張飛の前で劉備に伝える。役不足と思われ憤然となった張飛は、必死に出馬を願い出た。それを見て諸葛亮は満足そうに笑みを浮かべていた。

陰謀の宴

葭萌関(かぼうかん)の関所前で張飛と馬超が対陣している。お互い名乗りを挙げて一騎打ちを展開した。しかし、夜になっても勝負がつかない。そこで諸葛亮は馬超を味方に引き込む作戦に出た。劉璋と張魯(ちょうろ)を離反させ、更に馬超の謀反を吹き込み、馬超の退路を断った。その状況を作り出した上で馬超を説得し、味方に引き入れることに成功した。馬超は自ら劉璋説得を願い出た。馬超に説得されて劉璋は、この上の抵抗は無意味と思い極め、益州成都の城を明け渡した。 益州を手に入れた劉備のもとへ、呉の諸葛瑾(しょかつきん)が訪れた。以前の約束を守らせるためやって来たのだ。劉備はまずは長砂3郡を明け渡すと約束した。しかし、諸葛瑾が荊州(けいしゅう)を訪れると関羽が断固として反対する。劉備と関羽が善玉と悪玉を演じ分けてうやむやにするつもりでいたのだ。これを聞いた孫権は激怒するが、魯粛の作戦により、関羽を招いて宴会をすることにした。招待を断れば荊州を攻撃し、招待を受け宴会の席で荊州返還を断ればその場で刺客を持って殺害する気でいたのだ。関羽は招待を受け、周倉のみを従え、宴会へと赴いた。宴会の席で魯粛は荊州返還を関羽に迫った。しかし関羽は刺客が何人も息を潜めているのを知りつつ、断固として受け付けない。そして悠然と宴会を後にし、魯粛と諸将たちは呆然と見守るしかなかった。 作戦の失敗を聞いた孫権は、荊州攻撃を実施しようとするが、またも曹操が南下して来るという情報が入った。孫権は荊州を後回しにして、曹操に備えることとなる。 しかし、曹操は孫権を攻撃するよりも先に張魯を攻め、漢中を手にすることを決意した。

定軍山の戦い

曹操が漢中を攻めた後、西川(せいせん)に攻めかけてくるのを恐れた諸葛亮は、長沙3郡を呉に返還して同盟し、合肥(ごうひ)で曹操軍を牽制させることにした。この諸葛亮の作戦により破竹の勢いで漢中を手に入れた曹操は、西川を窺おうとしたが、孫権の牽制により断念した。 その様子を見て、劉備軍は漢中攻撃を開始した。先鋒を任された張飛は、張(ちょうこう)が守る瓦口関(かこうかん)に攻め寄せる。砦にこもり堅く守る張に対し張飛は苦戦し、毎日酒ばかり飲んでいた。それを聞いた劉備は諌めようとしたが、諸葛亮は大量の酒を張飛に届けさせた。すると、張飛はその酒で大宴会を開いた。張飛陣営の様子を遠くに望んでいた張は、冷笑し夜襲を決意する。しかし、全て張飛の罠であった。夜襲をかけた張は、たちまち張飛軍に取り囲まれてしまった。辛くも脱出した張は瓦口関へ逃げ帰ることとなる。 またも堅固な瓦口関を攻めることとなった張飛であったが、瓦口関の裏門へ通じる小道を発見した。この小道を巧みに利用して背後に回りこみ、張を挟み撃ちにした張飛は、ついに瓦口関を攻略したのであった。 張は天蕩山に逃げ込んだが、老将黄忠に攻め込まれ、定軍山(ていぐんさん)へと敗走した。曹操は、劉備と孫権を同時に抑えることができず、許都へと退いた。そして、ついに魏王の称号を得る。 定軍山では夏侯淵(かこうえん)と黄忠が対陣した。しかし、老将にして未だ衰えない黄忠は、落ち着いて勝機を見極め、夏侯淵を一刀両断で切り伏せた。 これを知った曹操は、自ら兵を率いて夏侯淵の仇討ちに向う。諸葛亮は妙計を持って、曹操軍を撹乱させ、勝機と見るや一気に挟み撃ちにした。そして曹操は陽平関への撤退を余儀なくされたのであった。

漢中王・劉備

陽平関に逃げ込んだ曹操軍を劉備軍は四方八方から攻めかけた。馬超と魏延が曹操を追い詰める。そして、魏延の射た矢で曹操は鼻の下を負傷する。陽平関に兵を退いた曹操は、漢中からの撤退を決意した。 漢中を手中に収め蜀の地を占領した劉備、漢中王と称した。それを知り、怒りを覚えた曹操は、曹操軍が北から蜀を攻める間、孫権に荊州攻めを打診し、漁夫の利を得ようと企んだ。 呉の孫権は諸葛瑾(しょかつきん)を使者として荊州の関羽のもとへ派遣し、関羽の娘と自分の息子の縁談を持ちかけた。しかし、関羽にはねつけられてしまったので、曹操の打診を受け入れ、荊州に攻め入ることにした。 その頃蜀軍では、劉備が、関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠を五虎将に任命した。そして関羽に荊州死守を命じた。 曹操軍は于禁を大将とし、先鋒は?徳(ほうとく)が務めている。?徳は関羽と対陣した。関羽は勇戦するが、?徳が隠し持っていた弓矢で左肘を負傷する。勝機と見た?徳は、追撃しようとするが、突然曹操軍の撤退の鉦がなったため、仕方なく馬を帰した。 撤退の鉦を命令したのは于禁であった。一番の手柄が?徳に持っていかれるのを羨んだのだ。そして、徳には後方の守備を任じ、自分で部隊を率いて、谷の入り口に陣を構えた。その陣形を見た関羽は、鋭く目を光らせた後、嬉しそうに大笑した。

関羽死す!

半年の間、雨が降り続いた。徳(ほうとく)は川沿いの低地への布陣に不安を覚えていた。しかし于禁は、陣を移動する気は更々ない。すると、ある夜、轟音と共に大量の川水が流れてきた。関羽軍が堤防を切ったのだ。陣所ごと大洪水にのみ込まれ、于禁軍は壊滅した。何とか高台に上った者たちも、大洪水の中、船に乗って押し寄せてきた関羽軍に捕らえられてしまった。そして、于禁は監禁され、徳は関羽の投降の勧めに背いたため斬首されることとなった。 勢いに乗った関羽軍は曹仁が守る樊城(はんじょう)に攻めかけた。しかし、曹仁の放った毒矢にあたる。毒に侵されていく関羽の右腕であったが、名医華佗(かだ)が現れ、手術を施した。骨から毒を抉り出す手術であったにもかかわらず、関羽は平然と碁を指しながら談笑し、脅威の忍耐力を見せた。 関羽の強さを恐れた曹操は、呉の孫権に利害を説き、荊州を襲撃させた。荊州攻撃は呂蒙(りょもう)に任せられた。陸遜(りくそん)の知恵も助け、呂蒙は手薄となった荊州を占領する。荊州を奪回しようとした関羽であったが、曹操軍と呉軍の挟み撃ちに合い、麦城(ばくじょう)へと退き苦戦を強いられた。救援を求めるため、劉備の養子である劉封(りゅうほう)のもとに廖化(りょうか)を送るが、劉封の参謀孟達がはねつけてしまった。 諸葛瑾(しょかつきん)が投降を勧めに来たが、関羽は一向に受け入れない。そして、孤立と飢餓に苦しむ関羽軍はついに麦城の城門を開き、最後の突撃に踏み切る。しかし、圧倒的な兵力の差に、関羽は息子関平と共に呉軍に捕縛されてしまった。孫権の前に引き出された関羽は強固としてひざまずくことを拒み、投降の意思はない。孫権は嘆息しながら斬首の命をくだした。 曹操の前に呉からの使者が木箱を持って現れる。孫権は関羽の首を曹操に送りつけ、劉備の怒りを曹操に向けさせようとしたのだ。その真意を看破した曹操は、自ら関羽の霊を祭り、関羽を手厚く葬った。 劉備のもとに血だらけの廖化が現れた。そして廖化の口から関羽の処刑を聞いた劉備は、驚愕と悲痛のあまり、その場に倒れ伏してしまった。

三国鼎立

関羽の死の知らせに気絶した劉備は、目覚めると呉攻めを叫んだが、諸葛亮が押し止めた。孫権は曹操に皇帝になるよう勧めたが、曹操は固く辞した。そしてまもなく、中国北方を統一した曹操は、66歳の生涯を閉じた。魏王の位を継いだ曹丕(そうひ)は、献帝に迫り譲位させ、自ら皇帝を僭称し、国号を魏と定めた。 一方西川を占領した劉備も、諸葛亮の勧めに従い、蜀において皇帝を称した。 劉備のもとに張飛が駆けつけて来た。関羽の仇を討とうというのだ。劉備は承諾し、諸葛亮や諸将の反対を押し切り、張飛に出兵の準備をさせた。張飛は仇討ちのため、全軍白備えで出陣することにした。そこで、范彊(はんきょう)と張達(ちょうたつ)に全軍の白旗と白い鎧を3日以内に用意するように命じる。しかし、2人が無理であると答えると、鞭打ちの刑に処し、間に合わなければ処刑すると伝えた。どうあがいても3日以内に全軍の白備えを揃えるのは無理であることを確信した范彊と張達は、無駄死にする位なら張飛を殺害し、呉へ降る覚悟を決めた。 酒に酔いつぶれている張飛。そこへ2人の人影が現れ、張飛の巨体に短刀を突き刺した。張苞(ちょうほう)が劉備に知らせに行った。報告を聞いた劉備はまたもや気絶してしまう。目を覚ました劉備は、関羽と張飛の弔い合戦を決意する。そして、先鋒には関羽の子・関興と、張飛の子・張苞を任じ、自ら出陣した。 蜀軍の勢いは目覚しく、若い将軍の活躍に焦り無謀な突撃をした黄忠を失うも、呉軍をことごとく打ち破った。 焦燥し始めた孫権は、英知に富む陸遜(りくそん)を大都督に任命する。老臣たちは若い陸遜の英知に気付いておらず、信頼をよせなかった。 劉備は彝陵(いりょう)で呉軍と対陣していた。呉軍諸将は蜀軍のあまりの兵力に狼狽していたが、その陣容を見た陸遜はただ1人目を光らせていた。そして、いよいよ英知を発揮することとなる。 荊州を守り戦陣に赴かなかった諸葛亮は劉備の布陣を聞き、焦った。火攻めに注意するよう使者に命令し、更に趙雲を呼び寄せる。 陸孫は火攻めを開始した。陸孫の作戦は的中し、蜀軍は混乱する。劉備は陸遜に追い詰められるが、間一髪のところで趙雲が救援に入る。一命を得た劉備は白帝城に逃げ込んだ。 呉軍諸将は攻めやすく守りにくい白帝城に攻めかけ、劉備を追い詰めようとしたが、陸孫はこれをはねつけ、退却命令を出した。陸遜曰く、劉備を追い詰めていると知ったら曹丕が江東に攻めてくるというのだ。撤退の途中、曹丕挙兵の報告が入った。諸将は驚き、信頼の眼差しを陸孫に送った。

劉備の遺言

白帝城に逃げ込んだ劉備は憔悴しきっていた。そしてついに、諸葛亮を呼びつけ、遺言を託した。皇太子・劉禅(りゅうぜん)が皇位を継ぐに足る人物なら補佐をし、その器でないなら諸葛亮に皇帝となって欲しいという。諸葛亮は涙ながらに承知した。姿を現した趙雲へも別れを告げ、静かに息を引き取った。そして同年、長男劉禅が即位した。 劉備他界を知った曹丕(そうひ)は蜀攻めに踏み切る。諸方に呼びかけ5軍団を編成し、蜀を四方から攻撃することにした。 焦った劉禅は諸葛亮を呼び寄せようとした。しかし何度使者を出しても、諸葛亮は病であると言い張り出仕して来ない。溜まりかねた劉禅は自ら諸葛邸を訪れ、諸葛亮と面会をした。5軍隊が蜀に攻め寄せて来る不安を伝えると、諸葛亮は大笑した。既に4軍隊を退け、残る孫権の軍隊の対処を行うだけでよいと言うのだ。そして、その孫権には使者として芝(とうし)を送り同盟を結ぶことにした。芝は孫権を見事に説き伏せ、同盟を結ぶことに成功する。こうして曹丕の思惑は崩れ去った。 その頃蜀国南部では孟獲が反乱を起こしていた。度々の反乱のため、諸葛亮は自ら征討に赴いた。しかし、曹丕討伐も行なわなければならない諸葛亮は、馬謖(ばしょく)を参軍に任命し、孟獲征討を任せることにする。そして度々反乱を起こす孟獲を心から服従させ、反乱を起こさせないようにする決意をした。 趙雲と魏延は若い諸将を用いる諸葛亮に不満を持っていた。そこで2人で結託し、諸葛亮に手柄を見せ付けることを思いつく。こうして、趙雲と魏延は孟獲方の元帥たち、金環三結(きんかんさんけつ)、董荼那(とうとな)、阿会喃(あかいなん)を征伐しに行くこととなった。

南蛮王・孟獲

孟獲方の3人の砦についた趙雲は、迎撃に出た金環三結(きんかんさんけつ)と董荼那(とうとな)と一騎打ちをするが、呆気なく勝負をつけた。溜まりかねた金環三結は部下たちに総攻撃を命ずるが、その部下の後ろから突然火の手が上がり、一隊が攻めてきた。魏延一隊である。挟み撃ちに会った孟獲軍は、壊滅した。最後まで抵抗した金環三結は切り捨てられ、董荼那と阿会喃(あかいなん)は投降した。 その頃蜀軍陣営では諸葛亮と馬謖(ばしょく)が地図を広げている。諸葛亮は趙雲と魏延を発奮させるため、わざと若い将軍を重用していたのだ。そして、2人が元帥たちの討伐に向かい成功することを見通していた。そこで馬謖に砦を奪い返しに来る孟獲を生け捕りにするよう命じた。孟獲は間もなく馬謖・趙雲・魏延に捕らえられた。 董荼那と阿会喃は諸葛亮の前に引き出されるが、縄を解かれ、厚いもてなしを受け、無事に開放された。続いて連れて来られた孟獲は不満を露わにし、もう一度戦って負けたら、負けを認めるという。そこで諸葛亮は、孟獲の縄を解き、再戦の機会を与えた。 釈放された孟獲は、董荼那と阿会喃と合流し、軍を整え再び蜀軍に攻めかけた。先鋒を董荼那に任せ出陣させた。董荼那は馬岱(ばたい)と対陣するも、諸葛亮に恩義を感じ、攻めることなく撤退した。これを知った孟獲は激怒し、斬首しようとしたが、諸将の請いを容れ、棒たたきの刑に処した。 これに憤慨した董荼那と阿会喃は夜中に泥酔している孟獲を縛り上げ諸葛亮に突き出した。再び諸葛亮の前に縛り上げられた孟獲はまだ納得がいっていない。部下に裏切って捕まったから負けではなく、もう一度捕まったら心から投降するというのだ。そこで諸葛亮はまたも釈放した。 次に孟獲は弟の孟優を使者として財宝を諸葛亮に届け、油断しているうちに内外から蜀軍を壊滅させようとした。しかし、諸葛亮は全てを看破しており、使者として現れた孟優を酒宴に招き、睡眠薬で眠らせておいた。そうとも知らず攻め入った孟獲は、たちまち捕らえられた。 孟獲はまたも自分のせいで負けたのではないと言い張る。諸葛亮は彼を釈放した。途方にくれた孟獲は、所有財産を全て用いて僚族(りょうぞく)の兵を借り、今度こそ諸葛亮の鼻を明かすことを誓った。

猛獣部隊

孟獲は僚族の兵を借り受け、10万以上の軍隊を編成した。孟獲の挑戦を受けた諸葛亮は西河(せいじがわ)の北岸に土の城を構え、竹の橋を門とし河を塹壕とした。孟獲軍の血気盛んな様子を見て取った諸葛亮は、堅く守り相手の士気が下がるのを待った。次第にだらけてきた孟獲軍を見て、諸葛亮は城門の竹橋を河に流し、撤退を命じた。 蜀軍の撤退を見て取った孟獲軍は追撃するため直ちに橋を架ける準備に取り掛かった。しかし、諸葛亮は撤退したのではなく、川下に回り、先に流した竹橋を使い西河を渡り、孟獲軍の背後を急襲した。10万の兵は散々に打ちのめされ孟獲は4度目の生け捕りとなった。そして例によって、次に捕まったら心から降伏することを誓い、釈放された。 次に孟獲は銀冶洞(ぎんやどう)に住む楊鋒(ようほう)を頼った。銀冶洞まで来た孟獲は入り口を守る衛兵隊隊長の小蛮姑(しょうばんこ)に楊鋒への取次ぎを頼んだ。奥へ行き戻ってきた小蛮姑が、楊鋒は孟獲に会う気がないが、代わりにある人物を会わせるという。その人物とは諸葛亮である。孟獲が驚いた瞬間、小蛮姑が攻撃してきた。そして敢え無く捕まってしまった。諸葛亮の前に引き出された孟獲はまだ納得がいかない。諸葛亮と力比べがしたいという。諸葛亮はまた釈放してやった。 孟獲が次に頼ったのは、猛獣使いの木鹿大王(ぼくろくだいおう)である。諸葛亮も猛獣には勝てまいと踏んだのだ。 戦場には象や虎、豹や狼が並ぶ。蜀軍の先鋒は趙雲と魏延であったが、さすがにどう戦ったらよいかわからぬ。兵も混乱する中、退却を余儀なくされた。報告を聞いた諸葛亮はかねてから猛獣使いの話を聞いており、秘策を用意しているという。 翌日、諸葛亮が戦場に現れた。それと見た孟獲軍は諸葛亮目指して猛獣を突進させた。すると蜀軍の間から奇怪な巨獣が現れた。これこそ諸葛亮が兵に命じ作らせた手押しの人造巨獣であった。口から火を吹く巨獣を前に孟獲軍の猛獣は恐れをなして逃げ出し、蜀軍の突撃によって孟獲軍は敗北する。 ただ一騎、山間に逃げ込んだ孟獲は、蜀軍将軍・張嶷(ちょうぎょく)に捕らえられそうになった。そこへ、一筋の飛刀が走り、張嶷の左肩に命中した。再三参戦を請うていた孟獲の妻・祝融夫人が助けに入ったのだ。祝融夫人は飛刀の名手であった。 祝融夫人の参戦により、孟獲は窮地に一生を得たのであった。

南蛮平定

諸葛亮は、張嶷(ちょうぎょく)と馬忠(ばちょう)が捕われたことを知ると、趙雲・魏延・馬岱に計略を授けて祝融夫人に挑戦させた。間もなく祝融夫人は捕らえられ諸葛亮の前に引き出されるが、すぐに縄が解かれ、張嶷・馬忠の引渡しを条件に釈放された。 孟獲は祝融夫人が戻るとすぐに張嶷・馬忠を釈放したが、諸葛亮に対抗する気持ちに変わりはなく、新しい計画を実行した。兵士に自分を縛り上げさせ、偽装投降を行い、引見しに来た諸葛亮を暗殺する計画であった。しかし、諸葛亮に呆気なく見破られ、またも捕らえられ、そして釈放された。 孟獲は藤甲兵を率いる兀突骨(ごつとつこつ)に援軍を求め、蜀軍の前に布陣した。藤甲兵の突撃に魏延が防衛したが、矢も剣も跳ね返す藤の鎧を着た藤甲兵に手も足も出ず、敗退した。初戦から劣勢となった諸葛亮であったが、計略を持って藤甲兵に対抗することにした。魏延により、兀突骨が率いる藤甲兵は、左右絶壁の道に誘導された。そして、前後の道を巨石・丸太で塞ぎ、火攻めを行った。これにより藤甲兵は全滅し、孟獲は捕らえられた。 諸葛亮は例により孟獲を釈放してやった。すると、孟獲は7回捕らえられ7回共釈放されたことで恥を感じ、ついに投降した。これを聞いた諸葛亮は、蜀軍が奪った孟獲の土地を全て返却し、今まで通り領主として務めるよう依頼する。深く感動した孟獲は二度と反抗しないことを誓ったのであった。 南部を平定した諸葛亮が成都に帰還した頃、魏の文帝曹丕(そうひ)が病没し、曹睿(そうえい)が即位した。そして、防備の弱い雍(よう)・涼(りょう)の二州を司馬懿に守らせることにした。 これを聞いた諸葛亮は、危惧を覚えたが、馬謖の案を入れ、司馬懿(しばい)が謀反を起こすという噂を魏の洛陽へ広めさせた。すると、曹睿は噂を案じ、司馬懿の任を解き、曹休に軍事権を与えてしまった。この機を逃さず、諸葛亮は北伐を決意したのであった。

北伐開始

北伐の先鋒は自ら名乗り出た趙雲が努めることになった。一方魏では、蜀の動きを止めるべく、夏侯楙(かこうぼう)が防備を固めた。衰えるところを知らない趙雲は次々と魏の将軍を倒していき、老将と侮っていた夏侯楙は敗走する羽目になる。 南安城に逃げ帰った夏侯楙を攻めようとした蜀軍であったが、城の守りが堅いことを知るや、謀略を持って安定城を落した。夏侯楙は諸葛亮の謀略を逆手に取ろうとしたが、それを看破していた諸葛亮は、またも魏軍に痛手を負わせ、夏侯楙を捕らえてしまった。 勢いに乗った諸葛亮は捕らえた夏侯楙を利用し、偽造文書を持って天水城の馬遵(ばじゅん)を誘き寄せようとした。しかし馬遵の部下・姜維(きょうい)は全てを見通していた。そして、諸葛亮の計略は失敗し、趙雲は馬遵・姜維の前に敗北する。 趙雲を追い払ったものの、すぐに諸葛亮自ら攻めかけてくると踏んだ姜維は、万全の守備を固めた。蜀軍は攻めかけるも、完全に包囲されてしまった。そして、諸葛亮は姜維の才能に感嘆しつつ、初めての敗走をすることとなるのであった。

智将・姜維

諸葛亮は次第に姜維(きょうい)を欲するようになった。そして、魏軍と姜維を離反させる謀略を企てる。 まず、姜維の母親がいる冀県(きけん)を包囲した。母親の危険を感じた姜維が冀県救援に向ったのを見計って、捕らえてあった夏侯楙(かこうぼう)に姜維が蜀に投降したことを告げ釈放した。魏軍に戻った夏侯楙は姜維投降を馬遵(ばじゅん)に知らせる。馬遵は疑ったが、諸葛亮が遣わした偽姜維が天水城を攻める様を見て、信じ込んでしまった。こうして本物の姜維は魏軍から裏切り者として攻撃を受けることとなった。 魏からも蜀からも狙われることになった姜維は、満身創痍で逃げ惑ったが、とうとう蜀軍に包囲された。そこで、諸葛亮が礼を尽くして説得した結果、諸葛亮の配下となることになった。 姜維は早速智謀を働かせ、天水城を制した。勢いに乗った蜀軍は次々に勝利を収め、20万の大軍を率いて来た曹真と郭淮(かくわい)をも打ち破った。 危機を感じた魏国は、諸葛亮の計略により失脚していた司馬懿(しばい)を復権させた。司馬懿の出馬を知った諸葛亮は、蜀軍の重要基地である街亭の守備を急いだ。守備役を名乗り出た馬謖(ばしょく)に仔細な注意を与え、王平を補佐役とし、更に魏延・趙雲・芝(とうし)にも応援させた。 危ぶむ諸葛亮の予想通り、馬謖は完全に自分を過信していた。反対する王平を押し切り、山上に陣を構えてしまった。対する王平は馬謖と兵を分け、布陣した。 街亭に到着した司馬懿は山上に陣を置く蜀軍を見て喜悦の表情となった。そして、馬謖が布陣している山を幾重にも取り囲んでいった。

空蝉(うつせみ)の城

自軍を取り巻く魏の軍勢に必死の突撃を繰り返すが、山頂へと押し戻される馬謖(ばしょく)であった。王平が救援に入るが張…(ちょうこう)がそれを遮る。水の補給路も断たれ、山に放火された馬謖軍は混乱に陥った。そこで司馬懿は馬謖の血路をわざと開き、救援に来るであろう魏延を討ち取ろうとしたが、王平が救援に入り、魏延は無事脱出した。しかし、こうして街亭は魏軍に奪われてしまった。 続いて列柳城も奪われたことを知った諸葛亮は、食料を移動させるため、わずかな兵力で西城に向かった。 この動きを読んでいた司馬懿(しばい)は15万の兵を率いて西城攻撃へとかかる。文官が慌てざわめく中、諸葛亮は平然として城門を開けさせた。そして、1人城壁の上に座り、琴を弾き始めたのだ。この様子を見た司馬懿は訝しげに思い、攻め入るのを躊躇った。諸葛亮の計略で、開かれた城門の中には伏兵がいると思い込んだ司馬懿は兵を撤退させてしまった。やがて諸葛亮は漢中へ撤退することとなった。 箕谷道(きこくどう)に待機していた趙雲は、追撃してきた大将軍曹真率いる魏軍をただ一騎で食い止め、悠々と漢中に撤退していった。 漢中本営で諸葛亮は縛り上げられた馬謖と対面した。そして軍法に準じるため、泣いて馬謖を切ったのであった。 諸葛亮はこの後、丞相の職を辞職したが、劉禅から右将軍丞相代行の職を受け、依然として軍隊の総指揮権を任されることになる。

諸葛亮対司馬懿

魏国皇帝曹叡(そうえい)と司馬懿(しばい)が蜀への防備を議論しているところへ、曹休から呉の将軍・周魴(しゅうほう)の投降を記した密書が届いた。司馬懿は周魴の陰謀だと知りつつ、曹休を陥れるため曹叡へ周魴の投降が本物であると信じ込ませ、援軍を送らせた。 呉軍は陸遜を大都督とし、周魴が内応すると信じている曹休を向かいうち、魏軍を壊滅させた。 その頃蜀では、趙雲が病死した。落胆を隠し切れない諸葛亮であったが、曹休の敗北を知り、第2次北伐を決意した。これに対し魏では、曹真が自ら名乗り出て防衛に当たることとなった。司馬懿は曹真が敗北することを悟っていたが、曹叡へ助言をしなかった。攻めかけてみるもなかなか勝てない諸葛亮は、姜維の策を容れ策略を用いた。姜維が蜀を裏切ると見せかけ、曹真を陥れた。これで形成が逆転した。蜀軍有利と知るや、曹叡は司馬懿に助言を求めた。司馬懿は蜀軍の兵糧不足を指摘し、食料が底をつくのを待つように進言し、曹叡はその作戦を曹真に伝えた。しかし司馬懿は、曹真がこの作戦を守らないことを悟っていたが、またも曹叡に助言しなかった。 司馬懿の読み通り作戦を無視し、討って出た曹真は、諸葛亮の前に完敗した。そして、諸葛亮は食糧不足を慮り、漢中へ兵を退いたのであった

妖怪の兵士

孫権は呉の皇帝を名乗った。そして、蜀と共に魏を攻めると見せかけ、蜀と魏を争わせることにした。蜀の諸葛亮は、呉の魂胆を見抜いていたが、魏を攻め立てることにし、次々に勝利を収める。 続々と届く敗戦の報告を聞いた曹叡は、司馬懿を大都督とし、蜀の侵攻を防ごうとした。 長安攻略を目論む諸葛亮は、魏の大都督として出馬して来た司馬懿の戦略を次々に見破り、常に司馬懿の先手を取っていく。ついに司馬懿は籠城を余儀なくされ、蜀軍の食料が尽きるのを待った。諸葛亮は、長期戦は不利と判断し、すぐに漢中へ引き上げていく。 翌年の麦が実りかけた頃、諸葛亮は大軍を率いてまたも魏へ攻め寄せた。魏へ攻め込む際、何度も食糧不足を経験した諸葛亮は、戦地で麦を調達するつもりでいたのだ。これを見て取った司馬懿は、蜀軍に麦を刈り取らせまいと防備を固めた。 そこで諸葛亮は、自軍を妖怪に扮装させ、魏軍を混乱させた。そしてその隙に、麦を刈り取らせたのであった。 食料も豊富となり形勢は蜀軍有利となったが、魏と呉が同盟を結んだとの報告を受け取った諸葛亮は、兵を撤退させることにした。 蜀の撤退を悟った司馬懿は、猛将・張(ちょうこう)に追撃をさせるが、諸葛亮の伏兵により、矢に当たって落馬してしまった。

六度目の進軍

諸葛亮が憤怒の表情で劉禅の前に現れた。魏と呉が同盟を結んだと聞いて漢中に引き返してきた諸葛亮であったが、その報告が嘘であったことを知ったのだ。兵糧責任者の李厳(りげん)が、食料を前線に送る手配に困り果て、嘘の情報を流し、兵の撤退を促したのであった。李厳は死刑にされそうになるが、先帝劉備の代から仕えてきた臣下であることを考慮され、成都追放に留まった。諸葛亮は李厳の代わりとして息子の李豊を推薦し、3年後に再び魏に攻め入ることを劉禅に誓った。 そして3年後。李豊は兵糧の調達を滞りなく行っており、諸葛亮もまた、前線に食料を送る機械、木牛と流馬を開発していた。関羽の子関興と、張飛の子張苞が他界し落胆を隠せない諸葛亮であったが、3年の歳月をかけ出征の準備は整った。 迎え撃つ魏の大都督はまたも司馬懿である。3年前の攻防戦で完敗した司馬懿であったが、諸葛亮の裏をかき、初戦に見事大勝を収めた。そこで諸葛亮は呉の孫権に北伐を促した。病にかかっており毎日薬湯を飲む生活を強いられているものの、諸葛亮の頭は冴えわたっている。司馬懿が差し向けた偽の投降兵も見破り、それを逆手にとって司馬懿を追い詰めた。 追い詰められた司馬懿は籠城し、蜀軍の食料が尽きるのを待とうとしたが、蜀軍では木牛・流馬を使い食糧供給を行っていることを知るや、その機械を略奪し、自国の工匠に複製を量産させた。木牛・流馬が奪われたことを知った諸葛亮は、敢えて取り返すこともせず、司馬懿の意のままにさせた。そして、魏の木牛・流馬が大量に完成し、戦場に現れた時、これを食料諸共奪い取ったのであった。 その後も度々追い詰められた司馬懿は、堅く守り出撃しないことを腹に決めた。司馬懿は諸葛亮が病にかかっていることを知っていたのだ。

五丈原の風

魏軍陣営の前で蜀軍が挑発をしている。しかし司馬懿(しばい)は、全く相手にせず、堅く守りに徹していた。そこで諸葛亮は、持久戦に備えると見せかけるため、各将を分散して屯田させ、木牛・流馬を率いて兵糧を運ばせた。これを見つけた夏侯和(かこうわ)が兵糧部隊を襲撃し、食料を奪った。諸葛亮はこれを繰り返させたため、司馬懿の警戒が緩み、ついに魏軍は出撃してしまった。司馬懿をうまく誘導し、谷に閉じ込めて得意の火攻めを行った。業火に行く手を阻まれ死を決意した司馬懿であったが、突然の大雨により一命を取り留めた。司馬懿は出撃を深く反省し、またも籠城決め込んだ。諸葛亮が病死するのを待つことにしたのだ。 3ヶ月程籠城した司馬懿は、様子見に1千の兵を偵察に出した。蜀軍が迎撃してこなければ諸葛亮の病状は重いと判断するつもりでいたのだ。諸葛亮は、自分の病状を悟られまいと、魏延に迎撃を命じたが、その後危篤に陥った。姜維に自分の兵法を記した本を授け、楊儀(ようぎ)には魏延の謀反に備え錦の袋を渡し、馬岱(ばたい)へは耳元で遺言を囁いた。そして劉禅が遣わした使者へは自分の後釜を伝えている時、諸葛亮は静かに息を引き取った。先帝劉備との漢王室復興の約束を果たすことなく、夢半ばにして五丈原(ごじょうげん)に散った。

司馬懿の反乱

司馬懿(しばい)は諸葛亮が死んだのではないかと推測し、夏侯覇(かこうは)に偵察を命じた。まもなく夏侯覇が蜀軍撤退を知らせてきた。そこで、全軍を率いて追撃を始める。しかし、蜀軍に追いつこうという頃、突然蜀軍の迎撃の陣太鼓が轟き、森の中から諸葛亮の車が諸将に守られて押し出されてきた。木造の諸葛亮であったとも気付かず、司馬懿は逃亡し、魏軍は敗走した。 諸葛亮の死後、楊儀(ようぎ)が丞相代行の任に就いている。しかし、魏延は楊儀の命に従わないどころか、馬岱(ばたい)を引き連れ蜀の兵権の譲渡を迫り、漢中に撤退する蜀軍の前に立ち塞がった。魏延の謀反に直面した楊儀は、諸葛亮から手渡された錦の袋を取り出し、中にある指示を仰いだ。そこに書かれていた通り、自分を殺す者はいるかと3回叫べば漢中を手渡すと魏延に伝えた。魏延は大笑いした後、楊儀の言う通りに大声で叫ぶ。すると突然、背後で馬岱が咆哮し、一刀のもと魏延は切り捨てられた。馬岱もまた、諸葛亮から密命を受けていたのであった。 こうして、蜀軍は漢中に無事帰還を果たし、その後の軍事権は姜維(きょうい)が握ることになった。 一方魏国では、曹叡は病死し、曹芳が皇帝に就いた。大将軍の任に就いたのは曹爽(そうそう)である。野心家の曹爽は司馬懿を忌み嫌っていたため、司馬懿は仮病を使い余命を短く見せた。すると曹爽は、上機嫌で狩に出かけてしまった。司馬懿は素早く兵を動かし、洛陽を占領した。曹爽は司馬懿に投降し、ついに司馬懿は魏国をその手中に収めた。 司馬懿反乱を聞いた夏侯覇は姜維に助けを求め、共に魏に攻め寄せてきた。司馬一族がこれを防いだ。司馬懿の死後、息子の司馬師と司馬昭が実権を握り以前、傀儡政権が続く。呉国では孫権が病死し、孫亮が皇帝となる。司馬師が呉を攻めるも、呉軍は頑強に抵抗し、数度の激戦を守り抜いた。 魏の敗戦を知った姜維もまた、魏に出兵したが、司馬昭と猛将・徐質が迎え撃つ。蜀軍は徐質の勇猛さに為すすべもなかったが、姜維の計略により、徐質を討ち取ることを得たのであった。そして夏侯覇が投降した魏兵に対し、軍服を脱ぐよう大声で命じた。

つわもの達よ!

魏兵に変装した蜀兵が求めると、疑いもなく門が開けられた。すると蜀兵が魏軍本営になだれ込み、司馬昭は裏門から脱出した。山頂に逃げ込んだ司馬昭であったが、周りを蜀軍に囲まれており、死を覚悟した。しかし、郭淮(かくわい)の救援に九死に一生を得て洛陽に辿り着いた。

『最強武将伝 三国演義』に投稿された感想・評価

アノ
5.0
0
怪作。チャンバラのときの閃光エフェクトが懐かしさのある迫力。
kore
3.5
0
いやこれ なかなか面白かったよ!
有名エピソードの素通り感とか
アリキリ石井の諸葛亮がめちゃめちゃ諸葛亮だったりとか 個人的に大ツボ!www