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U-NEXTで、『まんが日本史』は見放題配信中です。
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人類は大陸から移動してきた獲物を追って日本列島にやってきた。これが日本人の先祖である。今から5000年ぐらい前になると、人々は家を得て、1ヶ所に集まって住むようになり、土器を使い始める。そして2000年ぐらい前になると人々は米を作るようになり、弥生時代へと変わってゆく。
稲作が始まり人々の暮らしは豊かになったが、やがて村と村が争い、国ができ上がっていった。そして国と国とが常に争う時代になり、邪馬台国が誕生する。
6世紀になると大和の国は王位を巡って豪族の間で争いが絶えなかったが、豪族たちは越前から男大迹王を迎え、やがて大和を平定した。大和朝廷の成立である。
仏教に深い理解を示し、政治に高い理想を持っていた聖徳太子は、女帝・推古天皇を補佐することに。中国の進んだ文化、政治を取り入れて国家の基礎を作っていく。
聖徳太子の死後、朝廷では蘇我氏の勢力が強くなり、蝦夷・入鹿親子が横暴をほしいままにしていた。そんな時、中大兄皇子と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が出会う。
天智天皇の後継者には弟の大海人皇子が最も有力だったが、天皇の死後、大海人皇子と天皇の子・大友皇子の対立が激化。ついに大海人皇子は大友皇子を亡ぼすことに。
平城京への移転後、巷には浮浪者の行き倒れが多く出た。聖武天皇は仏教の力を借りて社会不安を取り除こうと全国に国分寺を建て、大仏を建立することに。
733年、遣唐使船が唐に向かう。その船に乗り合わせた栄叡と普照という二人の僧侶は、唐の国から徳の高い僧を招くという大事な役目を持っていた。
8世紀の中ごろ、藤原仲麻呂は太政大臣として政権を握っていた。この頃、弓削道鏡が、僧侶として頭角をあらわし始める。
朝廷が東北地方の住民を支配しようとする中、住民たちは反抗して叛乱を起こす。桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷平定を命じる。
858年、藤原良房の孫に当たるわずか9歳の惟仁親王が即位。そんな時、清涼殿の応天門が何者かに放火され燃えるという事件がおきる。良房はこの事件を利用して対立していた大納言・伴善男を放火の犯人として追放し、臣下でははじめての摂政の位につき、藤原一族の勢力は決定的なものとなる。
藤原氏は朝廷と姻戚関係を深め、ますます権力をほしいままにしていく頃、菅原道真は宇多天皇に認められ出世していくことに。しかし次第に藤原氏にとって邪魔な存在になった道真は九州の大宰府へと左遷されることになる。
9世紀も半ばになると律令制は崩れ始め、地方では新しい土地を開墾して力を蓄える豪族たちが増えるようになる。その一人として関東から平将門が現れ、伯父の平国香と領地のことで争い、国香を亡ぼして関東一帯を占領することに。
1000年頃、それまで大陸の唐に大きく影響されていた日本の文化も独自のものが生まれ始め、漢字をくずした「ひら仮名」や「かた仮名」が生まれる。特に女性の間に広まり、天皇の妃に仕えた女性たちの中から、清少納言や紫式部などの女性作家が現れ、小説や日記文学などが大きく花開く。
平将門の乱の後、平氏が大きな勢力を持つようになり、土地を取り上げようとした国司に対して平忠常が叛乱を起こす。これを討伐したのが源頼信であり、源氏の関東への進出の始まりとなる。その後、前九年の役・後三年の役に功績をあげた源氏は、朝廷でも大きな力を持つようになる。
白河上皇の時から始まった院政は、1156年(保元元年)には崇徳上皇と後白河天皇との間で深刻な対立を生むようになる。この対立はやがて、藤原氏や源氏・平氏を巻き込んだ戦い「保元の乱」に発展する。
平治の乱で大きく力をのばした平氏一族は京都の六波羅に多くの屋敷を作って住んでいた。そんな中、平清盛は参議となり、藤原貴族に代わって権力の座につくことに。清盛は平氏の権力を確実なものにするため後白河法皇に取り入り、太政大臣になり、自分の娘・徳子を高倉天皇の妃にする。
1180年、平清盛は娘の徳子が生んだ三歳の言仁親王を即位させる。安徳天皇時代の平氏は全盛期を迎える一方、平治の乱で伊豆に流された源頼朝は北条時政に養われ、時の来るのを待っていた。
伊豆で頼朝が兵を挙げた頃、木曽の源義仲は京へ攻め入る。平氏一門は安徳天皇と共に西国へ落ち伸び、頼朝の命令で弟の源義経と範頼が義仲を討ったのち、更に二人は後白河法皇の命令で平氏を一の谷で破る。1185年3月、壇ノ浦で源氏と平氏の最後の決戦が行われ、ついに平氏は滅亡する。
対立の末に不信感を募らせた頼朝は、凱旋した弟・義経の鎌倉入りを許さぬまま、鎌倉にはじめての武家政権の幕府を開く。更に頼朝は義経を追討するために、全国に守護・地頭を任命。これにより義経は奥州の藤原秀衡を頼って平泉に落ち延びるのだが。
源頼朝の死後、二代将軍・頼家は、伊豆に流され殺される。それを機に頼家の弟・実朝が三代将軍になるが、政治の実権は義時に握られ、北条氏による執権政治が始まる。
1268年、中国大陸一帯を支配していた元の皇帝フビライ・ハンが日本を征服しようと鎌倉幕府へ使者を送る。
後醍醐天皇は幕府を倒そうとするが、計画が事前に漏れ失敗。1331年に再び倒幕の兵を挙げるがこれも失敗して隠岐島に流されることに。
幕府崩壊後、後醍醐天皇は京都に戻り、翌年には年号を建武と改めて自ら政治を行うことに。しかし公家中心の政治は武士たちの不満を生み、足利尊氏が鎌倉で兵を挙げる。
京都を追われた後醍醐天皇は吉野に逃れ、仮の御所を開く。京都では足利尊氏の後押しで豊仁親王が即位し光明天皇となる。これが吉野の南朝と京都の北朝である。
二代将軍・足利義詮は、守護大名の問題と南北朝の争いを解決できないまま亡くなる。三代将軍になった義満は京都の室町に幕府を移して政治を行うことに。
室町幕府の基礎を固めた義満は禅宗の寺を保護し、そこから五山文学と呼ばれる優れた漢文や詩文が生まれ、室町文化の特色のひとつとなる。
足利義満の死後、四代将軍になった義持は、争いを繰り返していた実弟の義嗣を殺害。義持は北山山荘を取り壊し、明との貿易を中止するのだが、その結果幕府は財政難となる。
八代将軍・足利義政の時代になると社会不安は更に増し、一揆がしきりに起きるようになるが、義政は相変わらず贅沢な暮らしを続け、幕府の財政はますます苦しくなっていく。
応仁の乱の後、幕府の力は衰退し人々の暮らしは一層苦しくなることに。その状況下で、土地を荒らされ怒りを募らせた人々が一揆を起こす。
今川氏親の家臣北条早雲は、兵を挙げ伊豆一帯を支配。早雲は、土地の人々を大切にして国力をつけ、孫の氏康の頃には関東一円を支配する戦国大名となる。
1543年、九州の種子島に流れ着いたポルトガル人が所持していた鉄砲により、鉄砲は武器としてあっという間に広まり、戦争の形を根本的に変えることとなる。
関東管領となり上杉家を継いだ謙信は、北信濃に手を伸ばした信玄と川中島で争うことに。これが有名な川中島の合戦である。
尾張の小さな勢力だった織田信長は、尾張国守護代・織田信賢を滅ぼして尾張を平定。更に、今川義元の大軍を桶狭間で倒し、戦国大名として天下取りの舞台へ踊り出る。
1573年、信長は彼に敵対した将軍・義昭を追放し、室町幕府は滅び、長篠の戦いで強敵・武田勝頼を倒すことに。
敵対する大名を次々に滅ぼして天下統一に近づく中、信長は自ら出陣することに。途中京都の本能寺に泊まったが、明智光秀の謀叛により49歳の生涯を終えた。
信長第一の武将・柴田勝家と織田家の後継ぎ問題から戦となり、賤ヶ岳の戦いでこれを破った秀吉は信長の跡を継ぐ地位を得る。
天下統一をめざす秀吉は、天正13年には長宗我部元親を降伏させて四国を平定。島津義久を討って九州をも平定する。
信長から秀吉に至る安土桃山時代は力強く華やかな文化が次々と生まれる。その代表は城の天守閣で、城や書院造りの建物の中に絢爛たる絵や彫刻が施された。
秀吉の死後、朝鮮出兵から戻った加藤清正は石田三成らと対立。家康はこの対立を利用して政権を得ようとする。
1603年(慶長8年)、家康は朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開く。慶長19年、大坂に攻め込み、翌年、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼす。
1616年、家康は75歳でこの世を去る。二代将軍・家忠は家康の教えを引き継ぎ、三代将軍・家光の代には封建制度は完全なものとなる。
家光はキリスト教の禁止を徹底し、『踏み絵』などでキリシタンを極端に弾圧。厳しい弾圧と重税に耐えかねた農民たちが島原で一揆を起こすことに。
大阪を中心に町人や商人たちの中から井原西鶴の小説や俳句の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、浮世絵の菱川師宣などによって元禄文化が生まれる。
1716年、徳川吉宗が8代将軍になり大岡忠相を江戸町奉行に抜擢。吉宗は目安箱の設置・上米の令・新田の開発・町火消しの制度化など、享保の改革を行う。
1787年、徳川家斉が11代将軍となり、町人の間には里見八犬伝などの小説や、歌麿などの浮世絵が黄金時代となり、化政文化が生まれる。
その頃、東北を中心に全国的な飢饉が起こり、各地では一揆や打ちこわしが始まりる。これを見かねた大塩平八郎は人々を救うために立ち上がる。
1853年6月、ペリー提督率いる4隻の軍艦が浦賀沖に現われ、日本に通商を求めてくる。幕府はその武力を恐れ、交渉に応じる。
大老・井伊直弼が暗殺され、日本から外国を打ち払おうとする攘夷論が広まる一方、尊王思想を持つ人々が現われ、幕府と対立がおこる
外国船砲撃の報復で下関を占領されていた長州藩は、やむなく幕府に降伏。しかしその後、薩摩・長州両藩に討幕運動が起こり、坂本龍馬の仲介で薩長連合が成立。
1866年、家茂が亡くなり、慶喜が15代将軍となる。慶喜は幕府軍の増強を始めるが、翌年孝明天皇が亡くなると討幕派の動きを封じるため、大政奉還をすることに。
函館の五稜郭の戦いを最後に国内は新政府軍によって統一。明治天皇は江戸を東京と改め、年号も慶応から明治となる。廃藩置県や学校制度など、新しい近代日本が始まる。