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憑物語のEegikのネタバレレビュー・内容・結末

憑物語(2014年製作のアニメ)
2.5

このレビューはネタバレを含みます

なぜかこれだけ「セカンドシーズン」のアニメに入っていない『憑物語』を観た。全4話で、おはなしとしてちょっと面白くなるのは最終話後半から……という、いつもの物語シリーズの構成といえばそうだが、ふつーにつまらなかった。まぁおはなしが基本たいして面白くないのはもう受け入れているのでそれほど悪印象も抱かないわけだが。扇さんは更なる掘り下げに期待。正弦さんとかいう新キャラも登場した。余接とか正弦とか、三角関数の和名をモチーフにしていたと今更知ったのだけど、三角比の和名がカッコいいからキャラ名に使っちゃおう!という感性と、「実は自分の意志ではなく何者かの意志に導かれてキャスティングされて今ここに立って喋っているのではないか」という低級なメタ風味を臆面もなくぶっこんでくる感性(それを面白がる感性)には近いものを感じたのでいろいろと納得はした。
映像面も、(板村智幸監督になった)猫物語・セカンドシーズン以降と同様に、あまり洗練されていないというか、『化物語』での衝撃は薄れ、シャフト的な演出を惰性で続けているように思えてしまった。

本作のメインキャラ、余接ちゃんはかわいくて良かった。じわじわ好きになっていく。無表情で変なポーズや言動(いぇーい、ぴーすぴーす✌)をするキャラにそういえば弱いんだった。ときどき頬を赤く染めもするが、あくまで表情は変わらず、「赤面」という記号を敢えて単調に出力しているかんじがいい。
……とか思っていたら、4話でまさにこの件について言及があった。阿良々木にスカートをめくられている余接ちゃんが「僕が人形だけに羞恥心がないと思ったら大間違いだ」といい、それを聞いた阿良々木が「なんということだ…僕は斧乃木ちゃんの羞恥心がないかんじに萌えていたのに…。いや、羞恥心があるのに、ない風に見える無表情というのもまた、逆に萌えるかもしれない!」と考える。・・・わかるよ? わかるけど、その「萌え」を認めてしまったら、余接というキャラクターにとって "良い" のか?と思わざるをえない。
ちなみに、この命題は、下らない性癖議論のようだが、斧乃木余接というキャラクターの本質に関わる問題である。振り返ってみれば、「僕はキメ顔でそう言った」と全然キメ顔ではない無表情で連呼する(元)十八番の時点で、斧乃木余接というキャラクターは、発する言葉と見せる表情の矛盾において成り立っている存在であった。ここでも、阿良々木は(そして視聴者であるわたしは)彼女の言動…言と動の相克に戸惑う。
さらに、これは『憑物語』の主題そのもの、すなわち斧乃木余接という人ならざる者(=化け物)と、われわれ人間の関係という問題系に直結している。
人を殺してしまったら人間ではなくなる、という阿良々木の論を、余接は、それは人間側のお気楽で狭量な価値観に過ぎないと、「人外」の立場から指摘する(正確な台詞の内容は覚えてない)。 真に問題なのは、人を殺したあとも「人間」であってしまうことだという論にじぶんも同意する。それはともかく、人を模して作られた人形である余接は、阿良々木の前で人を殺してみせることで、自ら「人間」とのあいだに一線を引こうとする。この行動と、普段の無表情に奇異な言動をする振る舞いは、その精神性において通底しているだろう。それを阿良々木は、そしてわれわれはどう鑑賞してどう向き合うのか。
頬を染めながら恥じらう表情を見せないこと。恥じらう様子を見せないのに羞恥心があると言葉によって仄めかすこと。無表情な人間味のなさに萌えること。無表情の奥には人間的な感情があると想像して萌えること。彼女を「人間」として見たい気持ちと「人外」として見たい気持ちのアンビバレンスに阿良々木暦もわたしも引き裂かれる。そして、この両義性はけっきょくは斧乃木余接といういちキャラクター(の受容)に留まるものではなく、アニメの、虚構のキャラクターに相対するときの普遍的な問題だろう。さらに敷衍すれば、2次元の存在に限らず、現実に出会う生身の〈他者〉の認識にまで関わってくるかもしれないが。…ちょうど、余接と別れた阿良々木が仲睦まじく接する生身の人間(の彼女)たる戦場ヶ原ひたぎが、"自分"にとってどこまでも都合の良い虚構的なヒロインとして振る舞ってくるように。家に帰ったら裸で出迎える愛妹たちのように。その妹ふたりにちゃっかり並んで自分を待ち、これからはもっと近くで一緒に過ごすと告げてくる、クレーンゲームで取ってきた景品の人形のように。
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