たかはた

あまちゃんのたかはたのレビュー・感想・評価

あまちゃん(2013年製作のドラマ)
4.5
物語の運びにも人物配置にも不足なくして余剰もないミニマルな脚本に、その絶妙なキャスティング(いかに大人計画にいい役者が揃っているかがわかる。伊勢志摩がとてもいい)。とにかく薬師丸ひろ子と小泉今日子がすごいの。2人はこのストーリーが拠って立つ昭和のアイドル文化がいかに堅固だったかを存在で示していた。若き才能の塊だった天野春子を有村架純に当てたのもベストチョイスだ。でも何よりのんは才能と魅力が高密度で詰まったエネルギー体のようですごかった(この時点でさかなクンと共演してたんですね!!)。また、ヒロインからストーリーの主導権をむやみに引き剥がさないところが、私が朝ドラに求めるところを満たしていて良かった。「ヒロインが男性と幸せになるか」とか朝ドラにおいて本当にどうでもよくて、おめえがどんな人と関わってその中でどんなことを感じるかを私は見たいんだよ。だから種市の存在感が絶妙に薄いのが良かったし、そのあっさり感を出せる福士蒼汰も良いのよ。ぜんぜん失速しない、物語としての面白さと役者の演技とに、放送されていた半年間、1日のうちの15分を楽しく過ごせた人はとても多かっただろうと思う。(この頃まだ宮藤官九郎がセクハラネタを面白コンテンツだと思ってることは大目に見てやる)
一方で、やはり方言に関して指摘しておかなければならないと思う。特にドラマにおける東北の方言は、関西方言などの他の方言に比べて厳密さが軽視されているということは指摘されていて、『あまちゃん』でも東京出身のアキを「自己流(ずこりゅう)東北弁」を喋るキャラクターに設定することで厳密さに対して一定の諦めがある。この設定で溜飲が下がるのは、厳密に言うと、東北弁の善し悪しの分からない「非当事者」としてのマジョリティだけではないのか。同じ論考でもう1点興味深かったというか問題だと思ったのは、東北が舞台になるドラマは必ず「東京」と抱き合わせられるという点(ex『おかえりモネ』)。「大都会=共通語=洗練」という串刺しのそれぞれの要素は、東北との対比で描かれるとき、東北に与えられてきた「田舎=東北弁=非洗練」という串刺しを強化するという。どちらにせよ、東北は、東京を中央に設定して地方を周縁として「他者化」する権力行使がより濃くなされる地域である、ということだった。もっぱらマジョリティに向けてものが作られるこの社会で、それを問題なく楽しめることの特権性は問われなければならないし、自ら問わねばならないだろうと思う。
たかはた

たかはた