タカラゲ

エルピス—希望、あるいは災い—のタカラゲのレビュー・感想・評価

2.0
本作を見る限り、私にはなぜこの脚本家やプロデューサーが評価されているのか、全く理解出来なかった。

まず、登場人物が自ら心情を語りまくるナレーションは説明過多としか言いようがなく、あまりに稚拙な表現ではないか。また、主要な登場人物たちはすぐにキレて情緒不安定になり、生放送中に勝手にVTRを流そうとする行動を3度も採る。そんな輩は一発で組織から排除されるので荒唐無稽な設定だが、いくらなんでも1クールで3度も同じ手段をとらせるのは作劇としてあまりに展開力が乏しすぎる。結局、彼らの手段は“業務的テロ”しか持ち合わせていなかった。それはまさに権力(組織)に対して行うテロ行為のようにしか見えなかった。それが真に「伝えるべき事を伝える」ということにつながるのか。本来、調査報道というものは社内組織の軋轢や妨害さえも乗り越えて発信されるものだろう。様々な挫折を経験した登場人物たちの成長や手練手管ぶりが全く見られなかった。

最終話の出来すぎた“偶然の連鎖”は、本作が練り不足の脚本であったことを象徴的に表している。最も組織人的なキャラクターであるニュースデスクの三浦貴大はなぜ、チーフPの話を遮ってでも相談・報告せず、代役のキャスターを用意もせず、勝手な判断で鈴木亮平を呼ぶというスタンドプレーに走ったのか。同期の長澤まさみを慮って…だとして、彼がなぜそのような“賭け”に出たのか、人物設定の整合性が合わない(そのプランが失敗していたらどうしていたのか。時間的に他の手があったとは思えない)。だが、その三浦貴大の謎のファインプレーによって長澤まさみと鈴木亮平の10分間の対決という本作のクライマックスシーンが生まれた。そこで交換条件として冤罪事件のVTRが流されることになるのだが、そのVTRは“たまたま”テレビ局のロビーにそのVTRを“たまたま”持参していた眞栄田郷敦がいたから放送できた。もはやクラクラするほどのご都合主義で、「まさか夢オチ?」と疑ったぐらいである
(本来なら、最終話はすべて長澤まさみが計画し、周囲を欺き、決定的なVTRを流すための乾坤一擲の勝負(芝居)に出たという脚本にするべきだったのではないか。三浦貴大、鈴木亮平、眞栄田郷敦らは長澤まさみに踊らされる形で。映画『女神の見えざる手』のように)。

いや、最大限、好意的に解釈して「事実を伝えることはこれほどの偶然と困難を伴う」ということを伝えたかったのだとしたら、本来、事実を積み重ね、様々な組織内の障壁をも乗り越えて調査報道を伝えている正真正銘のメディア人に対して失礼である。そもそも冤罪事件の調査報道や再審請求はたった一つの証言やDNA鑑定で覆るほど甘くない。どれほど立証を重ねても報われないほど理不尽な司法の現実があることこそ伝えるべきだったのではないか。

…と言っても、そもそもこのドラマの主眼は冤罪事件や司法の現実云々ではなく、組織内での個人の反抗や(現代では既にテーマになり得ないほど言わずもがなの)多様性にあてられていた気がする。特にドラマ後半は。だとするなら、プロデューサーが描きたかったそのテーマのために実在の冤罪事件を持ち出すことは如何なものか、という疑問が湧いてくる。

ちなみに、序盤でいかにも怪しい人物として瑛太を登場させ、その見立て通りに彼が真犯人であったとする流れは、予断や思い込みで容疑者を特定する警察・検察の姿勢と何ら変わらない。このドラマがそうした視点をシニカルに描いていたとは到底思えず、やはり思わせぶりな引っ張り要素としてしか考えていなかったのだろう、というのが私の結論だ。
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