よっちゃん

ハートブレイク・ハイ シーズン1のよっちゃんのレビュー・感想・評価

3.3
「セックスエデュケーション」を目指しているんだろうなというのが随所で見られるオーストラリアの学園ドラマ(90年代のオリジナル版は見てないが)。50分×8とコンパクトで、テーマや話はとてもわかりやすい。人種やセクシュアリティにおいて、従来のドラマの役柄とは違った割り当てが多かったのはナイスだった。

(以下、かなりしっかりめに悪口を書きます)
(電車でヒマだったのでめちゃくちゃ長く書いてます)

ただ、自立してて開放的で、バリエーションに富んでて、外見も魅力的で、それでいて悩みや個性が1人1つずつ割り当てられた高校生たちを集めて「性の価値観教育」を気取られても、現実離れしすぎててもはやSFの域まで来ているとすら感じた。
現実の学生はもっと没個性で、同質性が高くて、それでいて同質であることを求められがちで、外見もみすぼらしく、悩みや個性が1つに特定出来てるわけもない(特に日本)。
教育チックで説教じみた高校生ドラマは、①現実味を重視するか、②ターゲットを絞るか、③無関係な別要素を混じえて誤魔化すか、④圧倒的にストーリーを面白くするか、⑤社会的教育的要素をそもそも意図的に排除するか、などして調整していかないと、今作みたいに単なる「有害なおとぎ話」になりかねないと思う。言い過ぎかもしれないが。

近年のドラマで言うと、①は興行上の難しさがあるので思いつかないが、②は自閉症の高校生とその家族に絞った「Atypical」、③はミステリー要素に逃げた「Riverdale」や、90年代カルチャーをゴリ押しした「Everything Sucks!!」、④は個人的意見だが「Sex Education」、⑤は「Euphoria」が当てはまると思う。高校生モノで真正面から教育要素を押し出すと、現実とフィクションのギャップから生じる「無責任な価値観の押し付け」がどこかで歪みとして生まれるのだと思う。

今作で例を出すと、autisticの女の子とノンバイナリーゲイの友達2人組が、外向的でオシャレで魅力的なキャラクターとして描かれている。彼女らは自分に直面する課題や悩みに葛藤するが、他者からの多少のアドバイスはありつつも最終的にはその明るい性格と持ち前の行動力で独力で解決していく。ではそれは学校生活において自閉症や性的少数者たちが抱える問題への普遍的な答えなのだろうか。そんなわけはない。現実には内向的、控えめ、外見的魅力に優れない(見せ方の問題)、目立ちたくない、といった障害者や性的少数者が大多数であろう。そういった人々を支えるのはまずは周囲の人間による配慮や環境作りであるべきだと私は思う。社会派ドラマのなかで、特定の"恵まれた"性格や見た目を持ったキャラが「自助努力」で居場所を見つけていくという描写は、余りにも非現実的で無責任であると感じた。特に自閉症スペクトラムや性的マイノリティなどは、人種問題とは違って「隠しながら生きる」という選択肢が存在することも忘れてはならない。それは個人の選択の1つでもあり、教育の行き届いていない大多数の社会集団においては現状不可欠の選択肢でもある。これらの問題に"silence is complicity"的価値観を無理に当てはめようとするのはかなり危険なのである。魅力的な自閉症、性的少数者のキャラを描くことが悪いのではなく(むしろ積極的に起用するべき)、その人らを利用して「視聴者に感化を強要する」のが良くないという話である。

自閉症の高校生を主人公にした「Atypical」では、「主人公が努力して人並みのことをできるようになる」という描写はほとんどなく、むしろ「努力してもできないことがあるということ、それでもそこから得られる別の何かがあること」に重点を置いて、その中で主人公の家族や友人がどう動くかなどに焦点を当てていた。間違っても主人公を外見的に優れているようには描いておらず、とにかく現実感を意識していたように思う。今作では物語上ごく一部に過ぎないキャラを利用して無責任な価値観押し付けをしており、配慮の無さを感じざるを得なかった。

最後に「セックスエデュケーション」と今作の違いをいくつか考えてみた。
①教育主体
「セックスエデュケーション」では性経験のない高校生の主人公オーティスが、等身大の目線で生徒一人一人と向き合いながら解決へと向かうという方向性だった。一方今作では、性教育専門の講師を呼んで、半ば恣意的に選ばれた15人だけに向かって一方的に「普遍的真理」みたいなものを説くというスタイルがとられていた。この押し付けがましさと意図的選抜感が受け入れがたかったのだと思う。

②ジョック構造と善悪二元論
現代の価値観に即した高校生ドラマに求められるものは、「ジョックカルチャーの破壊」にかなり集約されると思う。これは「生まれや所属組織などで上下は存在せず、勝ちも負けもないこと。また完全な善人も完全な悪人もおらず、全ての高校生はそのグラデーションの中にいること。」などを包含している。「セックスエデュケーション」シーズン1の個人的に好きなキャラとしてジャクソンを挙げる。ジャクソンは生徒会長で水泳部のキャプテン、また序盤では主人公の恋敵という立ち位置であるが、話が進むにつれて、ジョック文化や親からのプレッシャーに耐えきれず、自らの居場所を演劇部に見つけるという展開を辿る。水泳部のエースが自己アイデンティティに悩んだ末、部活を辞めて下手くそな演技に真剣に取り組む姿は心打たれるものがあった。対照的と言ってはなんだが、今作ではその要素がかなり薄かったと感じた。バスケ部のキャッシュがそれ担当っぽかったが、反ジョックの構造転換までは至っていなかった。
また、最終話で「私たちが悪い人たちに復讐する」みたいな展開に持ってったのは失望した。「悪い人を懲らしめる」という、ただ上下関係を逆転させただけの、単純な善悪二元論に落とし込んだ安易な脚本は現代高校生ドラマに求められているものではないとおもう。

③話の作り込み
結局これに尽きるのかもしれない。例えば今作の肝となったハーパーとエイミーの仲違いは、「セックスエデュケーション」シーズン1の5-7話あたりのオーティスとエリックのすれ違いを彷彿とさせるものだった。ただ、喧嘩の原因も、お互いの主張の居た堪れない正しさも、仲直りの過程も、全て「セックスエデュケーション」のそれに完敗していた。非英米ドラマあるあるとして、話の整合性、現実味をまあまあ無視するというのがあるが、感化強要系ドラマで登場人物の内面、行動原理が理解し難いというのは致命的だったと思う。
よっちゃん

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