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ウルトラマンティガのccのレビュー・感想・評価

ウルトラマンティガ(1996年製作のドラマ)
5.0
実は通しで見たのは初めて。ウルトラマン人気ランキング上位常駐も納得の傑作だった。同じ90年代の特撮作品である平成ゴジラやガメラ3部作と同様、現在から見ると笑ってしまうような稚拙なエスパー、超能力者の設定やとってつけたような「天才」たちの存在は多少ノイズになるが、それ以上の面白さがあるため作品の評価には特に影響しない。単話でもしっかり話が立っている上、各登場人物や登場怪獣にスポットライトをあてた回が複数回をまたいで存在するのも特徴的(例えば、後述のクリッター三部作と呼ばれる回は、登場怪獣は共通し話も繋がっているものの第6話、第15話、第28話と飛び飛びである)。その上で50話全て話が繋がっているわけではないため、明らかな中だるみエピソードが続くといった特撮あるあるにも陥らず、また1話を抜き出しても退屈しないといういい塩梅である。基本はやはり地球防衛チームGUTSのメンバーの群像劇となるわけだが、その周辺の人間(地球人に限らず)が非常に多い。その人間たちはGUTSメンバーやティガとあるときには衝突し、あるいは救われることもある。この多大な前振りは、最終話「輝けるものたちへ」のスペクタクルを存分に味わうためには必要不可欠であると言えよう。

また、マン、セブン、帰りマン昭和前期組ほどの切れ味はないにせよ、勧善懲悪に閉じさせない様々な試みがあったように思う。(関係ないが、昭和前期やコスモスやティガ、ガイアが異端なのではなく、A以降、マックス以降に急激に社会性が消え失せ極端に平坦なヒーローものになっていると言った方が正確なのではないかとすら最近思う。ティガは昭和前期に帰ろうとしただけでは…)
特に武力放棄の話が登場する第28話「うたかたの…」は語り草だが、個人的にこの話の魅力は、武力か否かという問いそのものではなく、ラストで地球を去る生物クリッターにあったと思う。かなり好きな話なので長めに紹介する。
クリッターは電離層に生息する、地上生物とは関わりのない生き物である。しかし人間が絶えず流し続けた電磁波の影響で狂暴化、巨大な怪獣となるものも現われ、作中では人類の脅威として描かれている。人間が電磁波を止めることは不可能なのだから、クリッターへ対抗できうる武力を持つしかないと一見リアリスティックに論を展開する男性陣に対し、恣意的なまでに感傷的、理想主義的に描かれているように見える女性陣は「人間が自分の都合で元凶を正せないことは情けないこと」「武器を捨てればいい、そうすればもう怪獣も出てこない」と語る。マドカダイゴ=ウルトラマンティガも「何故戦うのか」を自問するが、結局は他のヒーロー同様なし崩しに人間の味方としてクリッターに立ち塞がる。
そしてクリッターはというと、なんとそんな人間たちを見限るかのように地球を去る。元凶を正す姿勢を見せず、ついには自分たちをせん滅しようとした人類を、(そして絶えず人類に味方し続けたティガを)見限り、人類は共生の道を「諦められる」のである。これは非常に痛快である。基本的にこのような命題の選択権は人類側にあるのが自明のように思われるが、クリッターはこれを自分のものとすることで、人間として悩み、戦うことを選んだダイゴの姿もろとも空虚なものと変えてしまうのである。このようなウルトラマンの姿が、これ以降何度あっただろうか。

カルト的信仰を人類に求め、破滅するこの世界ではティガではなく自分たちのみが人類を救える天使なのだと主張するキリエル人や、人類を「導く」べく巨人の力を手に入れようと慢心するマサキケイゴ=イーヴィルティガなどは、オウム真理教という時代背景を読み取ることも可能だろうか。それぞれを阻むダイゴは、自分はあくまで普通の人間であるとし、特殊な存在、例えば人類の救世主や導き手になるということを拒み続ける。
GUTSイルマ隊長もまた、ピンチに陥り、キリエル人によって「悪魔」に仕立て上げられたティガを神格化することはせず、人々の洗脳を解く際に「ティガに力を貸してあげてほしい」と、信仰ではなく協力、助けを求めるのである。流石に天使の絵とティガの姿が連動する箇所はこそばゆく感じてしまうが、結果的に「光」を人びとより受け取ったティガは再び立ち上がることとなる。
後年のウルトラシリーズではよく「光の巨人」ウルトラマンに相反する存在として「闇の巨人」たちが頻繁に登場するが、ウルトラマンにおける「光」「闇」概念の出発点はおそらくこの作品なのだろう。初の「闇の巨人」はイーヴィルティガであり、またウルトラマン一人のでなく人間たちの「光」について言及があったのはキリエル人の回だと言える。ではここから「光」と「闇」について何か言えるだろうか。今の自分では優れた評論を書いたりすることは難しいが、ふんわりとティガから言えることは「光」は隣人愛や希望、「闇」は優越性、独善性や絶望として解釈できそうだということくらいだろうか。少なくともティガにおいて「闇」は必ずしも「悪」とは一致していない。マサキもキリエルも、懲悪として切り捨てられるほど悪者として設定されているわけではないし、より悪者らしい異星人は他に登場するのである(レイビーク星人、ムザン星人など)。

ディズニーのツイステッドワンダーランド、DCのスーサイドスクワッドなど、ヴィランが脚光を浴びる風潮が最近確立されつつあることは理解しつつも、ウルトラシリーズにはぜひともティガに始まった「悪」に閉じない「闇」の概念を腐らせることなく描いてほしい気持ちがある。一応ダークネスヒールズという試みはあったが、アレは私にはキャラ消費としか映らなかった。ジョーカーをやれとは言わないが、わかりやすく悪党がヴィランをやっている作品とは違うのだから、劣等感や中途半端に暗い過去をつぎはぎした闇の巨人を量産しないでほしい。ティガで描いた闇をないがしろにしないでほしい。そう切に願う。
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