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呪怨:呪いの家のりょうたのレビュー・感想・評価

呪怨:呪いの家(2020年製作のドラマ)
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『呪怨:呪いの家』

『呪怨』は非常に思い切りのいいホラー作品だ。監督の清水崇の言葉を借りれば、「笑われるほど幽霊を出しまくる」。恐ろしさと馬鹿馬鹿しさ、しかし本当に“見える”人からすれば圧倒的にリアルらしい描写が新鮮であり、劇薬的な怖さと面白さがあった。
ただその劇薬ぶりは強烈で、作品の内容以上にキャラクターのインパクトが一般層に定着してしまい、現代ではJホラーの代表作『リング』の貞子同様、継続的な続編公開があっても、面白おかしくパロディ化された宣伝のみが悪目立ちする状況が続いていたように感じる。そうした流れが極に達し、『貞子vs伽椰子』という怪奇プロレス祭りに発展した功罪もあるが、『呪怨』は本質的に持っている魅力をキャラに食われ、少なくとも国内においては損をしているシリーズであったはずだ。
作り手がそこに意識的であったか、それは分からない。しかし断言できるのは、今作『呪怨:呪いの家』が、キャラクターを中心に据えた定型的な作品イメージを脱し、より怪奇に、より新鮮に、真綿で首を締めるような恐怖を観客に与える優れたブランドとしての立ち位置を(少なくとも観客が抱いていたネタとしての侮りを払拭し)回復して見せたということだ。Netflixという創作の治外法権が作品の質を底上げした最良の例の一つともいえるだろう。

今作は、現行続いている『呪怨』シリーズの流れとは一線を画す前提を持っている。この作品世界においては、既に『呪怨』という映画、またはそれの元となるオリジナルビデオが存在し、荒川良々さん演じる主人公・小田島がその原案となった実際の事件を回想するかたちで物語が始まる。つまり今作は、「今までの『呪怨』」=「伽椰子と俊雄が出てくるホラー」ではないというところから話が始まるわけだ。呪われた家とその影響を受けて壊れていく人々の群像劇、オムニバスとしての作劇構造はオリジナルを踏襲しつつも、明らかに新しいこと、ブランドのリブートという意識を強く打ち出しているのは明らかだろう。そして上手いのが、そうした意思と作品の立ち位置を見事に一致させている点だ。
オリジナルビデオの発売は2000年、今作はその12年前、1988年から1997年までの9年間を描く。『呪怨』発売までの現実の時系列と一致した時代設定が、原点を見ている感覚を増強し、より生々しい実在感を持って作品の、シリーズ全体の基礎を強化している。何よりこの9年間を選んだことに重大な意味がある。劇中テレビで流れるニュース映像からもわかるように、この期間の日本では歴史的に重大かつショッキングな事件が連続的に起きていた。「女子高生コンクリート詰め殺人事件(88年)」「松本サリン事件(94年)」「阪神淡路大震災(95年)」「地下鉄サリン事件(95年)」、作品内で重大な出来事が起きるタイミングには、必ず現実で起きた大事件が重なっている。自分たち観客が今作の怪奇な出来事を知らないのは、こうしたビッグニュースの陰に隠れていたからで、実際にはその裏側でそれらの事件に匹敵する恐ろしいことが進行していたのだ、という地続きな恐怖をこちらに植え付けてくるのだ。ちょうど「埼玉愛犬家連続殺人事件(93年)」が震災とテロの陰に隠れたように、こうしたことは現実に起こり得る。それが今作の生々しさ、単体作品としてシリーズの一作としての異質さにも直接に繋がっていく。

何度も使ってしまった表現だが、既に鑑賞済みの方にはお分かりのように、今作は『呪怨』云々以前にとにかく生々しい。呪い、怨念、と霊的なイメージを持って鑑賞に臨むと、かなりの確率で予想外の方向からのパンチを食らうことになる。きっかけに呪いはある、伽椰子や俊雄の原形になったであろう要素もある、しかし起こる出来事は全く違う。母と娘、父と息子、自分と恋人、広い意味での家族。それがみるみる内に呪いに変わっていく。そしてその崩壊を見届ける、それが今作の最も太い物語の骨格だ。その点においては、日本的解釈による『ヘレディタリー/継承』ともいうことが出来るかもしれない。
『ヘレディタリー/継承』同様、今作の人間関係はどれも既に壊れかけの状態にある。
里々佳さん演じる聖美と母親の互いに互いを荷物だと見下し合う関係性のヤダ味は、聖美と長村航希さん演じる“道連れ”雄大との一方的で暴力的な逃避行と破滅へスムーズに移行し、俳優陣の湿り気を帯びた演技も相まって気色悪い現実味を溢れさせる。この二組の関係性については、一連の描写の直接的・間接的両方向の演出バランスが素晴らしく、過度な表現は少ないのに十分すぎる怖さと嫌さを表現しきっている。特に第二話、ポラロイド写真がカーペットに落ちると…というそこで起こっている行為の禍々しさ表現と、現場から立ち去る聖美の予想外の表情は、こちらの予想と身構えを全て打ち崩す。
黒島結菜さん演じる本庄はるかと井之脇海さん演じるその恋人・哲也。この二人も、まさにこれから家族になるというところで巻き込まれ、残された側は行ってしまった側の残した闇を持ち続ける。これも家族が残した呪いと言え、残された側としては小田島もまたそうだということが終盤明らかになる。
そしてなんといっても強烈なのが、久保陽香さん演じる千枝と松崎亮太さん演じる圭一の真崎夫婦だ。夫婦関係がそれぞれの役割を演じるゲームだというのは、『ゴーン・ガール』を見て皆わかっていることだが、役割からの脱却と再構築というある側から見た未来への希望に満ちた一歩を、ここまで血みどろに、そして陰惨に見せたこの二人の場面には、酷く気持ちを落とすと同時に大きな拍手を送りたい。無表情で立ち上がり包丁を握る久保さん、この期に及んでも気を遣った物言いを続ける丸崎さん。その攻守の関係が、ある一言で一気に逆転する瞬間の恐ろしさ。里々佳さんの体当たり演技と並ぶ、今作の間違いない白眉だ。
こうした家族という関係性が常に事件の中心にあり、そこに含まれる人間は否応なく悲惨な出来事を目にし、場合によっては破滅する。そもそもの原点である『呪怨』がある家族の悲劇から始まった呪いであったように、今作もまた家族を描きながら、そこに新たな解釈を加えた。発端は家かもしれない、家から呪いが始まるかもしれない。しかし家族というものがある限りは常に破滅の予感が共存し、呪いはあくまでそれを実現させるきっかけでしかない。きっかけさえあれば簡単に崩れ、時間を超え血脈を超えて家というもので繋がる家族の物語、それが『呪怨:呪いの家』の本質だ。

これはあくまでも自分の解釈であり、見た人それぞれに感じるものは違うはずだ。単にホラーとして楽しんでもよし、一歩二歩踏み込んだ地上波では見れない意欲作として楽しむもよしの間口の広いエンターテイメントである点も付け加えておきたい。
とにかく、これほどまでに行く末が見えない恐怖、誰にも感情移入できず安心を感じられない不確かさを味わえる経験は珍しい。解釈の余地は広く、確実に求めた以上の悪寒を回収できる。理解しきれないことの怖さ、自分が思うホラーの本質を6話で見せ切る三宅昌監督の手腕に身を任せ、是非鑑賞していただきたい。
同じ月額を払っているなら見なきゃ損、入ってないならこれだけ見て解約でも得をする、Netflixドラマの新たな良作だ。


追記:
柄本時生さん演じるMについて書いておきたい。このM、劇中において非常に印象的な場面が幾つか用意されるが、実は二つの場面でしか登場しない。主人公・小田島にヒントを与える部外者、呪いとは無関係に幼女に手をかける殺人犯としての立ち位置だが、何故あれほど異質な恐怖を彼について感じるのか。
一つには、柄本時生さんが持つ俳優としての雰囲気(話し方や立ち振る舞い)があるだろう。ただより大きい要素は、彼が物語上ほぼ唯一家族という構図から除外されている存在だという点だ。呪いをきっかけに崩壊する家族の一員ではなく、自分の意思で家族を崩壊に導く存在、つまり積極的加害者であり、今作の本筋から分離している人間だからこそ、そんな人間が事件の一端に気付いていることに不気味さを感じるのだ。
今回書いた家族という観点を正しいとすれば、このMというキャラクターはその観点を利用したことで生まれた今作の要素の一つと言える。そしてそれがしっかりと怖さ・不気味さに繋がっているのだから、本当に素晴らしい。

また、今作の特殊造形と表現の踏み込みについても書いておきたい。中盤登場する、世にも恐ろしい“アレ”と、その父親の死に様。アレの造形と操演が見事なのは見れば明らかだが、後者については少なくとも自分は映像作品であの表現を見たことがなかった。人体の構造上、あの死に方をすればあのようになるのは考えつくし、実際にそうであるというのを不動産関係の仕事に就いている親戚から聞いている。配信限定だからこその表現の自由が細部に現れた、小さいが重要な場面だ。
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