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ふたりの女、ひとつの宿命のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

ふたりの女、ひとつの宿命(1980年製作の映画)
3.0
【自由な者はより自由に、不自由な者はより不自由に】
昨今、マニアックな映画のリバイバル上映が盛んに行われている。2023年上半期はオタール・イオセリアーニ特集が話題となったが、もう一つ注目の特集がある。それはメーサーロシュ・マールタ特集である。ベルリン国際映画祭やカンヌ国際映画祭での受賞歴がありながらこれまで日本ではほとんど紹介されていなかった監督メーサーロシュ・マールタ。昨年、MUBIで特集が組まれ界隈で注目されていたが、日本にも上陸することとなった。2023/5/26より新宿シネマカリテ他にて始まるこの特集に先駆けて、今回ライトフィルムさんのご厚意で一足早く彼女の作品を観ました。今回は、カンヌ国際映画祭にて国際批評家連盟賞を受賞した『ふたりの女、ひとつの宿命』を観ていく。

ナチス・ドイツのフッテージから始まる本作は、メーサーロシュ・マールタ作品としては異色であろう。いつもは工場周りから物語を始めるからだ。しかし、物語としては一貫して女性の息苦しさにフォーカスがあたる。不妊症であるスィルヴィアから代理母のお願いをされるイレーン。この場面がいきなりグロテスクである。独身であると語るイレーンに対して「女に生まれたなら男と生きるのが運命よ」と突きつけ、自分の代理母になる依頼をするのだ。彼女は諦め切れない夢があるため、代理母になることとなる。しかしながら、自由に動き回れるスィルヴィアに対してイレーンには自由がない。夢が遠のく上に、戦争の足音が聞こえてくるのだ。代理母は一見すると、子どもを授かりたくても授かれない人を救う存在に見えるかもしれないが、実情は貧しき者を搾取し、富める者はより自由に、貧しき者はより不自由になっていく。映画は、不自由ながらもグッと堪えるようにして生きていくイレーンと、図々しく冷たく表面的な感謝を連ねるスィルヴィアのヒリヒリした関係性を紡いでいくのだ。なんとも恐ろしい映画であった。
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