多次元世界の住人

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスの多次元世界の住人のネタバレレビュー・内容・結末

4.4

このレビューはネタバレを含みます

世界はベーグル🥯ではなく愛👀を選んだ。

過去最高の映画であり古典となり得る作品!パターン化された現代に投じるアンチコスモス(東洋)的な激ヤバな映画!
我々が求めてるのはまさにコレだ!!

見たあとは「ヤバいものを見た」という感想しか湧かなかった。しかし時間が経つと思い出のように沸々と蘇り、味わい深く「意味」を刻む。映画の演出もさることながら、ついに新時代が来た!と思えるような最高の映画だった。

観た後(3.9)→映画館を出て(4.0)→少し経って(4.3)→さらに経って(4.4)
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まず出演者の演技に驚いた。エヴリンの素朴でありつつも内面に大きな問題を抱える様子やウェイモンドの人々にkindであろうとする姿。ジョイの現代的な若者らしさからゴンゴンの旧き人間っぽさは一気にストーリーへと没入させた。
ディアドラは特に印象深かった。
(オスカーおめでとう!!インディージョーンズもカンフーパンダもミニオンもハムナプトラも見てたのでとても嬉しい😭)

次に演出。全てが規格外。突拍子もないことでジャンプしようとする様子、あらゆる可能性を顕現させるジョブ・トゥパキ、エヴリンの全ての並行世界のリンク、すべてを載せたベーグル、沈黙の石の世界。自分が求めていた世界はまさにこれだ!と認識させた。

次にパロディとオマージュ。並行世界にソーセージと石、そしてレミーのおいしいレストランなどなど。想定外だがそれを映画に表現する発想、非常に刺激を受けた。
途中のカンフーもシーンもカンフーを習いたいと思ったし、スマブラの当たり判定を聞いた時は興奮した。

GAGA系の映画はたまにチープなものがあるので少し身構えていた。A24スタジオは観る前は知らなかったが、ミッドサマーのスタジオと聞くとこの演出美にはとっても納得がいくものだった。

ストーリー展開ははじめの日常的な風景は非常にテンポ良く、ある意味「文学的」なレトリックの効いた難しい映画になるのではと考え込んでしまった。しかし監視カメラに映るウェイモンドの姿から一変、一気に軽快なビートが流れ込む。
展開に映り込む違和感はついに姿を現す。

マルチバース(並行宇宙)はSFの題材にはなり得るがファンタジー留まりであった。それを意識のリンクという形で描き出す。タイムマシンパラドックス(BTTFのようなもの)を下敷きに新しい物語を紡いでいた。

輪廻には見えない絆があると言われる(マンガ「スピリットサークル」)。立場は違えど、同じ人間がそれぞれの場面でまた出会うという不思議な縁だ。今回は前世ものではなかったが、並行宇宙においてもエヴリン、ウェイモンド、様々な人が交差するという描き方はこの「縁」をうまく描いているように思う。

そしてジョブ・トゥパキの全ての意識を相対化する描写、東洋的な自由の境地とはまさにあの姿である。あらゆる色を空にし、空から色へと移り変わる。何にでもなれる姿というのは華厳の相即相入の姿を見事に表現しているように思う。

しかし印象的なセリフは「あらゆる倫理と客観的事物を信じなくなった」という部分だ。
権力性から真理を暴いたフーコ、倫理性を暴いたニーチェ、科学のパラダイムはポパーなど実存とニヒリズムが下敷きにあることがよくわかる。
あらゆるものが相対化された世界とは絶対的な価値が見えないものだ。東洋でも仏教や老荘はまさしくこの平等性を説くものであった。

だがここから難しい。何もないということによって自由は掴むが、そこから新しい生を見出すことができないのだ。積極的な生を説こうとしたのがキルケゴール、ショペンハウアー、サルトル、ハイデガーなどであった。

ジョブ・トゥパキは退屈さからついにベーグルに全てを載せる。ベーグルはの奥に見える深淵はニーチェの有名なコトバのオマージュだろう。
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」

また死よりも恐ろしいものとして表現されているのは「絶望」であろう。絶望はデュルケームがいうように「自殺」へと導き、キルケゴールがいうように「死に至る病」となる。
実存(生きる意味)を見出して生きるにはここで積極的ニヒリズム、つまり自ら生きる意味を見出すのしかないのだった。しかしジョブ・トゥパキは消極的ニヒリズム、つまりあらゆるものの価値を消し去り疲れきってしまったのだった。そして全てを無に返そうとベーグルへと行こうとするのである。

またジョブ・トゥパキはエヴリンを探している理由を彼女なら救ってくれるのではと考えたからと言っていた。フロイトに代表される精神分析の系譜を辿れば、逃避行動などは不安から生じるとされる。不安だからこそ確かなものに縋りたい。確かなものが見えないジョブ・トゥパキはそれをエヴリンが知っているのではと思いすがろうとした。
だがエヴリンは何かを持っている訳ではなかった。自分と同じ精神状態に陥ることで、ベーグルへと誘い込む。

しかし主人公、エヴリンはそれでも価値を見出す。価値というよりも確かなものである。
夫ウェイモンドの性格に支えられ、それでも自らの選択を肯定できる価値を見出す。この映画ではそれが「愛」であった。

ここは私の持論だが、映画内ではウェイモンドの優しさに包まれながら、それをLOVEと呼んでいた。

つまり愛の定義とは?という話でもないのだ。様々な経験と実感から湧く、生を肯定できる感覚、それをエヴリンは愛と呼んだ。
禅仏教でも言語道断という言葉があるし、老子でも無名というのを重視していた。言葉にするとそれに執着してしまう。だからこそエヴリンは言葉で納得しようとはしなかった。生きる意味を過去の経験から実感として導き出した。
そのようなものは現象学・フッサールでいえば「確かなもの」である。

そしてエヴリンはそこから周りの人間を絶望から掬い上げる。愛という内発的な確かなものを実感させることで彼らの生きる意味を見出させる。
特に家族中は精神分析的な描写がよく表れていた。不安ゆえの逃避行動は深層心理に溜め込まれる。そしてそれはいつか爆発する(ユングがいうように悪夢やトラウマ、精神障害として)。
我々はここからいつまでも逃げてはいられない。向き合い、認め、乗り越えなくてはならない。ここがヘーゲルの指摘するようなアウフヘーベンへの道である。

そして自分自身、ウェイモンド、ゴンゴン、ジョイへと届き新しい生へと目覚める。
絶望から死へと向かわず、生に意味を見出した彼らは新しいはじまりを切り出すことになる。

総じていえば現代に必要な実存的テーマであったといえるのではないだろうか。

あらゆるものがパターン化され、科学合理主義が蔓延る中で人間は当たり前の呪縛から抜け出すことができない。その退屈さは同時に自分の心の内に現れ、それを他者へと投影する。相互作用の関係は負のスパイラルを生み出し、ますます問題を顕在化させる。
(だからジャンプには突拍子もない準備が必要だった)

一定の秩序が作られた社会や便利なスマホ、急激な多様性に人間は追いつかなくなった。ハイデガーは「総駆り立て体制」なんて呼んだが、近年はますます実感として我々に訴えかける。

生きる意味を失いつつある我らがいかにしてそれに立ち向かうか。それを来てもおかしくない未来の技術と理論的に正しい能力によって描き出した。

これらに一貫する作風が東洋思想である。
荘子の混沌、仏教の空、老子の万物、華厳の円融無碍など納得いくものがたくさんだ。
「天馬行空」とはよく言ったもので、我々はそれを見出すこともできずまた飲まれてしまっている。

タイトルの ”Everything Everywhere All at once “ はそのような思想を踏襲したものだろう。それを曼荼羅と読んでも良い。だがより近いものは華厳経の世界観なのではないだろうか?部分が機能的に作動するのではなく、全てのものがあらゆるところで一気に訪れる。仏教ではそれを真如と呼ぶし、科学ではそれを全体性として立ち上げている。

私が古典になり得ると言った理由はここで東洋的自由の見地から現代の実存的問題にSFの舞台で問いかけているためだ。
何度見ても何かを得られる、そんな気がする。
私はこの映画をひとつのバイブルとして捉えたい。

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【無味乾燥と化した虚無の世界から抜け出し、希望や愛としか呼べない本質なるものに気づく、我々が生きることの意味とは?】

あらゆる可能性に気づく時、また同時にあらゆる意味を失う。全なるものは我々に姿を見せるが、そこには私はいない。世界の間で混沌に飲まれる時、崩壊する世界線を望みながら、ただ生きる意味を探し求める。多くが餓死した時、生への執着を失う。しかし逃げてはならない。手放してはならない。生きることはただその瞬間を意識することでしか味わえない。

実存とニヒリズム、確実なものなき世界に我々は何を見出すか?