よどるふ

すずめの戸締まりのよどるふのレビュー・感想・評価

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)
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これまでの新海誠作品では、距離や時間など、絶望的なまでに埋めがたい“隔たり”が描かれてきた。今作もその例外ではなく、タイトルにもある“戸(扉)”によって、その内と外に“隔たり”が生まれているのだが、本作においてはその扱いが異なっている。

先ほど“隔たり”を「絶望的なまでに埋めがたい」と形容したのは、その“隔たり”が作中人物たちにとって、マイナスに働くものであるからだ。しかし、本作において人々に災厄をもたらす“ミミズ”が出現する扉を閉じる役目を担う“閉じ師”による施錠=“隔てる”行動は、人を災害から守るための行為、つまりプラスの行いなのだ。

今作には“扉”によって内と外の世界が隔たっているマイナスな状況もあるのだが、“隔たり”に含まれているイメージは悪いことの一辺倒ではない。そして“扉”は、その内と外とを隔てるものであると同時に、内と外とを“繋ぐ”役割を持っていることも今作における重要な点となっている。

成り行きで準備の間もなく唐突に始まったロードムービーでも、「財布持ってるの?」という観客側の心配は無用で、すべてスマートフォンの電子決済で事足りる描写に現代性を感じた。主人公がフェリーに乗り込むまでの追いかけっこシーンは、音楽も相まってテンションが上がる。

旅の中で主人公の着る服には絶えず変化があり、クライマックスに突入する場面での満を持しての“着替え”と、ラストに明かされる真相が印象に残る。これは旅の道中で挿入される印象的な食事シーンと合わせると、“衣”と“食”なわけで、ならばこの旅路の果てにあるのは……?という。

ロードムービーは、“人間の生活の必要最小限”が浮かび上がるものであると同時に「行きて帰りし物語」でもある。本作もまた「行きて帰りし」の枠に収まる話なのだが、そこに本作のクライマックスで明らかにされるテーマと上手く絡めて捻りが利かせてあるのが見事だった。

“後ろ戸”と名付けられた災厄の扉は、人間を基準に考えると「背を向けられている」存在だ。作中でも語られている通り“過去”を象徴していて、人間が現在から未来へ進む方向の反対に位置するものであり、「閉じられるべきもの」として登場している。

扉を開け、扉の向こう側に行き、振り返って扉を鍵をかけ、扉を背にして、歩み出す。「扉を振り返ること」は過去に向き合うこと。「扉を背にすること」は未来に向かって歩み出すこと。旅路の果てに主人公が口にするのは、“旅立ち”の言葉。ならば主人公にかける言葉はただ一つだ。

以下余談。基本的に“扉”で隔てられている内と外を行き来するには“扉”の開閉は不可欠なのだが、そんな本作に登場するイレギュラーな存在が“オープンカー”であり、主人公が扉の開閉を行わずにオープンカーに乗り込むシーンには、思わず声がでそうになるほど感嘆した。

「“扉”を開閉していないにも関わらず、その内と外とを行き来している!」というショックがあったからだ。さらにそのオープンカーは屋根が壊れており、内と外を隔てることができないという特異性もあった。そんなオープンカーの所有者もまた、場の空気感をかき回してくれる良キャラクターであった。

また、四国から関西へ向かう際のシーンを観て「この作品に“ご都合主義”という言葉を使うのはやめよう」と思った。自分としては「都合よく事は運んでいませんよ」という配慮をチマチマと入れられるよりかは、こういう思い切った嘘をついてもらった方が気持ちいいからである。
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