亜済公

すずめの戸締まりの亜済公のネタバレレビュー・内容・結末

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

序盤の一目惚れするシーンはやや雑であるし、前半と後半で物語構造が大きく変化するのはなんだかバランスが悪い。が、それはそれとして面白かった。

全体→セカイ系
前半→魔法少女・バディもの
後半→喪失と回復の物語

全体を通してセカイ系的な構造が見える。また、前半では魔法少女もの、バディものの要素が濃く、コミカルな逮捕劇と共に、人々の目に見えない巨大な危機を主人公は人知れず次々解決していく。後半では一転し、草太と椅子、叔母との絆などを喪失し、それらを回復するための旅に出る。

本作において何より目を引くのは、「災害」であろう。思うに地震というやつは、日本において日常と非日常を緩やかに結びつけている。我々は地震を日々体験し、慣れてさえいるが、しかし人命を奪う巨大な災害に繋がることもあるわけで。普通の人々がただ「揺れているな」と感じる一方、主人公の目には世界の危機が見えている、という演出は、魔法少女モノを彷彿とさせ、同時にこうした地震が持つ日常/非日常の両特性を見事に表現している。

また、こうした災害の結果として、主人公は「死ぬのは怖くない」「生きるか死ぬかはちょっとした運の問題だ」と口にする。しかし反面、物語の最終局面では「死にたくない」とその心境を変化させた。背景にあるのは「愛」であろうか。物語のあちこちには、成就しないまでもさまざまな愛が示される。喋る猫が執着する「好き」という言葉、すずめの草太に対する愛、彼女と叔母との愛、職場の同僚の叔母への愛、あるいは各所に見られる友情。作中で、世界は(前半では悪役のように表現された猫でさえ)「愛」によって成立している。日常に『天気の子』のような治安の悪さはなく、ただ尊いものとして表現される。そうした日常の象徴として示される「行ってきます」という「戸締り」のシーン。戸締りとは、再び帰ってくること、明日へ繋がること、明日もまた生きることを前提とした行為であろう。物語の終盤で草太が口にする呪文の、「あと一日、一年を生かしてください」という風な言葉は、まさにこの日常を、日々の営みを尊ぶものだ。地震は常に地中へ潜み、「生きるか死ぬかは運の問題」であり、しかしそれでも「生きたい」と願い、明日に希望を見出すということが、本作の最終的な結論であろう。

ミミズは、日常の失われた廃墟から溢れ出す。与えられた土地に世界に感謝し、祀り、悼み、人柱を据える発想はアニミズム的であり、同時に、隣接する日常と非日常との境界を、生きた町/廃墟という構図からも表現しているように思う。議論の余地が多く、見ていて楽しい作品だった。
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