KEKEKE

TAR/ターのKEKEKEのレビュー・感想・評価

TAR/ター(2022年製作の映画)
5.0
- 映画館から帰宅する道すがら思考がこの映画に占拠されてしまってもはやどうやって家まで辿り着いたのか覚えていない
- この作品のことしか考えられない体になってしまっている

- ケイトブランシェットの怪演凄まじい、何よりトッドフィールドの脚本家/監督としての手腕が本当に恐ろしい
- キャンセルカルチャーのモチーフは作品の一要素に過ぎないと思うので、誰かの感想に踊らされずに素直に観て欲しい
- 「芸術と構造」がテーマの作品だと私は感じた
- 少なくとも既にこの作品を愛してしまっていることを伝えたい

- 紐解いていくと、さながらドイツの歴史に残る名建築群のごとく緻密な造形の上に擁立し、寸分の隙もなく組み立てられた映画であることがわかる
- この作品は芸術を取り巻く腐敗の構造を「構造の芸術」を以て華麗に批判し、そこにトッドフィールド自身の回答もきちんと用意した
- 薬で以て真っ向から毒を制しようと試みた熱いアートだ
- 微視的には難解だと思われる映画だが
- ミクロからマクロへ、登場人物から作品全体へ視点を拡大していくとその構造が見えてくる

- 軽く大筋を振り返る
- リディア・ターは富、名声、権力を全て手に入れた指揮者で、それゆえに多大な権威に浴するセクシャルマイノリティの女性である
- 完璧を追い求める彼女は、オーケストラ、教え子、パートナー、愛人、身の周りの全てをコントロールし、常に支配者であろうとした
- 脅迫的なまでに追い求めた彼女の完全無欠は次第に妄執へと変化し、とある事件を境に決定的な歪みへと発展していく
- 今作は、全てを手にした女性が全てを失うまでの軌跡を2時間38分かけて描いた

- あらすじを追っていくと、権威の腐敗や支配の暴走の批判、もしくは権力を持つ女性が世界から排斥されるキャンセルカルチャーを描いた作品、など様々な解釈で受け取ることが可能だ
- しかし魅力的なストーリーにのみに注目した場合、この映画が擁するアートとしてのさらなる上部構造を見逃すことになる
- 作品全体の構造まで視野を広げるとそれは浮かび上がってくる

- リディア・ターを滅ぼした原因がそうであったように、他人や環境を意のままに支配しようと望む欲はやがて権威性を帯び、腐敗に結着し、自らを蝕む呪いへと成長する
- 実社会でも、芸術を取り巻く業界の環境は権威の腐敗と被害者の再生産という負の連鎖を延々と繰り返しており、根本的な解決の糸口はいつまで経っても見えないままだ
- その理由のひとつに、業界が責任の矛先を傀儡の個人に向け、本体の構造的な腐敗を放置したまま頭だけを挿げ替えてきた歴史がある
- 本体はゾンビの如く生きながらえ、次に縫い付けられた新しい頭もやがて侵食されゾンビの一部となり、また弱者を食い物にブクブクと成長していくのだ
- リディア・ターはその悪しき慣例を利用した加害者の側面を持つ一方、ある意味ではそういった構造の被害者でもある
- 権威の腐敗の根本原因は個人ではなく構造自体にあるため、万能感に囚われる時の権力者もまた、その権威構造に支配される代替可能なパーツに過ぎないのだ
- そうした現実の直中でトッドフィールドという監督はこの作品を撮った

- この袋小路にトッドフィールドが出した答えは、支配という欲望のフィールドから一段降り、それによって権威構造から解放されることだ
- 「TAR/ター」という作品において彼は物語をコントロールする権利を手放し、その解釈を大きく観客に開くというスタンスをとって権威構造からの脱却を図った
- 作品を具に観察するとそれが見えてくる

- 映像に表出するスピリチュアル、ホラー、スリラー、サイケ、ドラッグの要素は、主人公の精神世界を巧みに表現すると同時に、受け手による物語の更新可能性を自由に増幅させる役割を果たしている
- さらにストーリー上の夢と現、虚と実のあわいを意図的に曖昧にする脚本構成は、受け取り方次第で千差万別の解釈ができるよう緻密に作り込まれたものだ

- それらを象徴するシーケンスがある
- ストーリーの中盤、文字通り「Tar」という物語が「転倒」する場面では、前後の繋ぎ目が意図的に不穏なベールで覆い隠されている
- そのシーケンスを境に作品の現実世界と空想世界は混ざり合い、最終的な判断は観客に委ねられる
- ここまでただでさえ「どっちなん?」という気持ちにさせられていたのに、この時点で決定的に物語の補助線を見失ってしまう
- そしてこの映画全体の解釈すら、観る人間の解釈に応じて無数に分岐してしまうといった具合だ
- リディア・ターという人間からカオスの結末へと、物凄く緻密に丁寧に誘われている感覚があった

- しかしこの観客へと開かれた手法は自由な発想を妨げない分、作品を貶める解釈を発生させるリスクも孕んでいる
- 例えば、作品の解釈は自由であるというエクスキューズをした上で、苦手な手合いの解釈がある
- それは、「主人公の精神世界に突入しているのでは?」とか「実はもう死んでいて...」といった、物語を足元からひっくり返してしまうようなものだ
- これらには、安易なアンチナタリズム信仰やひろゆきに代表される論破を前提にした論調などと同様に、積み上げや、コミュニケーションを短絡した、ややもすれば作品を土台から台無しにしてしまうような不快感がある
- 飛躍した解釈が暴走し作者の手から離れて物語を毀損してしまうケースは、過去の様々な作品にも見受けられる
- しかしそれすら引き受けることこそがアートだと、この作品は訴えるのかもしれない
- 快不快に関わらず、このシーンの存在が作品にとって不可欠だったことは事実である

- 寧ろここまでさまざまな解釈を可能にしながら、分断の再生産となる類の誤読の可能性は丁寧に取り除いているのは見事だ
- これがアンチダイバーシティの話だ!とかアンチフェミニズムだ!という趣旨には取られないよう、細心の注意を払って構成されている(アジア蔑視、ゲーム音楽軽視などの解釈は散見されたが...)
- だから、そのようなことを言っている奴等はそもそも作品を見ていないか、作品を利用したデマゴーグかのどちらかなので注意だ

- ここまでを整理するとこの作品の構成は
- 個人を支配する権威構造(ART/アート)
- 権威を手放した芸術作品(TAR/ター)
- 支配に囚われた女性(リディア・ター)
- という社会構造を絡めた入れ子構造によって成立していることがわかった
- つまりTARは支配に囚われた人間が転落し芸術とは何なのかという問いに対峙させられる作品
- 作中でも鏡に写るリディア・ターのシーンが頻繁に挿入されるように、作品の中で彼女は彼女自身と幾度となく対峙させられている
- そのとき彼女が見るのはTarかArtかそれ以外の何かか
- そして監督はその物語を御するための指揮台から降り、自分が生み出した作品の更新可能性を見守っている
- その構造自体が芸術を取り巻く権威構造を批判したアートになっている

- トッドフィールドの主張はこうだ
- 指揮者(conductor)から芸術家(artist)へ、権威という欲望に固執せず己の作品と対峙せよ、それが構造の支配から逃れる唯一の術だ、と

- ちょっと美しすぎません?
- 個人と構造の支配という命題をテーマに、それを作品の構造にまで落とし込む
- 支配を望む人間もまた構造に支配されていることを描き、その映画の構造を以て作品のメッセージを伝える偉業に成功している
- 何故アートとして勝負する必要があったかというと、そこには映画業界という巨大な権威を利用しているメディアにおける自己矛盾的な特性があるからだ
- 構造の内部で、その権威の腐敗から逃れるために、作品を新たな枠組みで包み直す必要があったのだ
- TARかARTのアナグラムなのも、この作品は商業映画ではなくあくまで芸術作品として世に送りだすという意思の表明ではないだろうか
- 間違いなく後世に語り継がれる名作であり、芸術に真っ向から向き合った前代未聞の怪作

- ラストシーンについてとか、主人公がレズビアンであることの意味とか、舞台がドイツである必然性についてとか、書きたいことはまだ山ほどあるけど、もう一度映画館に足を運んでからにしようと思う
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