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ケイコ 目を澄ませてのharunomaのレビュー・感想・評価

ケイコ 目を澄ませて(2022年製作の映画)
2.9
観る予定はなかったが、
ムビチケをいただいたので丸の内TOEI 2 にて。
あいかわらず杜撰な東映であった。興行が行き届かないという。
階段を降りて劇場に向かいたくはない。

観終わって2日経つと、日常の身振りの中に岸井ゆきのと音が反復される。そう、あの鈍く渋い顔つきと共に。やはりいい映画だったのだ。しかしそれは映画なのか(誰得なのか)。その次の日に見た『拾われた男』というものでは、やはりわちゃわちゃとしゃべり倒して動いていた。香川京子や有馬稲子がおし黙ったら、それは何かだろうが、岸井はとりあえず、あの声でしゃべっていればよい。存在の問いとして現れた最後に、デンゼルは微笑む。16mmの影たちの絵日記が死へ向かわないのは、《他のためにその身代わりとなる一者》マイ・ボディガードの可能性ではないからだ。そんな他者がそもそもこの映画では存在していない。観ているわれわれ自身が他者なのだろう。しかし「この映画はきみと大いに関係がある」とは言わない。

日常は正義なのだろう。いや正義以上に普遍的だ。
日常とは、僕ら貧しい風景とどこまでもフラットで差異(断絶)のない文化とチルアウトの音楽だ。命がけの美がないひとつの人生とは、ジャーナリストが小説を書き始めるくらいのものだろう。
まず天井が低く狭く汚い。
息のできない交換はまずもって空間のなさが致命的に血を失わせている。
コミュニケーションの指示表出は豊富だが、自己表出があるようでない。そう、ガレルでもダルデンヌでもないのだ。単純に若者がいない。
人を捉えたいい映画に違いないが
溝口健二の言葉通りこう言おう。
成瀬には金玉がついてるんですか?
もしかしたら浮雲より浮ついているかも知れず、苦しい。
もちろん鈴木清順でも相米慎二でもない。全然知らないが根岸吉太郎のように思える。

反復練習。唖の苦しみ。
オンオフの繋ぎの問題(物語上)でしかないが、それにしてもラスト付近のあの声は酷い。日誌なるテクストを読めていない。
あの日誌の朗読は岸井ゆきのの声でよかった。つまらない合理的配慮で途端に三宅的回想が輝く。
赤いキャップのトニスコやら父ありきの小津の類似の身振りやらの目配せがうざい。
朝や夜の河原、通過する電車の光の反映、16mmも悪い意味で2000年代前半の美学校っぽい。
静けさは北野武っぽいが、ショットの持続もサイズも著しく違う。
声なき者は、見ることに特化し、身振りもまたサイレント映画かも知れないが、インタータイトルと字幕が結局は読むことでしかない。
その点で友人とのランチはよかった。ケイコ先生ではない。
最後まで澄んだ目を見ることはなかったのだから、副題は気をつけるべき。

軽薄なインタビュー(記者がまた軽薄な俳優)で他人に人生を説明させるところが三宅唱のいつもの頽落的で人のいいサービス。
日常の偏見と思い込みはどこにでもあるが、存在の問いとは実は関係がない、あくまでもここでは言語の問題において横たわってしまっている。コロナ禍のマスクや無観客、垣根なしの仲良し人種はポリコレか。

三浦友和では『ミリオンダラー・ベイビー』にはならない。
雰囲気の16mmよりもパキパキのデジタルで撮る方が尊厳を提示できたかも知れぬ。
ともかくアメリカ映画から遠く離れて、ポスト是枝の味付けを変えるくらいが現代シネマの使命なのだろうか。ならばトニー・スコットの赤い帽子などおくびにも出すまい。
見終わった後に知覚が変わることは一部評価に値する。
映画はすごい、良品計画並だ。
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