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ケイコ 目を澄ませてのnatsuoのレビュー・感想・評価

ケイコ 目を澄ませて(2022年製作の映画)
4.5
「ろう者と我々」

直近、ろう者を扱った映画はCODAがあった。あれも素晴らしい映画だった。心から感動した。
本作もろう者をテーマにした作品。鑑賞が遅れたので、日本アカデミー賞も発表しており、主演女優賞を岸井ゆきのさんが受賞したことも知っていた。ので、期待値は高いわけで。
自分自身、あまり実写邦画は観ない。別に嫌いとか好みじゃないとかそういうわけではないのだが、どうしても洋画の方に興味がいってしまう。なので久しぶりの実写邦画でもあった。


冒頭、暗転の中聴こえてくる、しゃっしゃっという音。ううむどこかで聴いたことがあるぞ。フェードインしていき映っているのはノートに何かを書いているケイコ。からん、ごりごりともなる。氷を食べる音である。そしてタイトルイン。『ケイコ 目を澄ませて』。このワンシーンで音がとても大事なのだろうとわかる。
再び暗転し音先行で、シュッシュッと一定のリズムを刻む音、キーキーという個人的には不快な音、軽く何かを叩く音が聴こえる。フェードインと共にボクシングジムであることがわかる。縄跳び(ロープ)トレーニングをする人、金属製のトレーニング用品で鍛える人、ミットで練習する人。狭いながらも多くの人がいてそれぞれトレーニングをしているようだ。もちろん、それぞれの声も聴こえてくる。トレーナーの掛け声、休憩中の会話、荒い息や踏ん張る声。四方八方から音と声が深く聴こえてくる。ケイコもその場にいる。トレーナーとコンビネーションの練習をしている。ジャブ、ストレート、フック、アッパーを駆使し、ミットを殴る音。ドンッドンッ。トレーナーからの攻撃をかわしたり受けたりする音。シュッドンッ。何度も繰り返し、徐々にコンビネーション数も増えていく。しかし彼女たちはいたって静かである。会話はない。掛け声もない。トレーナーはジェスチャーなのか何かの合図で次の手を教え、ケイコはそれに従って技を出す。依然、ジム内のあらゆる音や声は聴こえてくるのだが、ケイコの周りは驚くほど静かである。ケイコの周りにはトレーニングの音と彼女の息の音だけ。スクリーンという2次元の空間でも、3次元的に耳に入る音響がその対比をよく表している。小さなジムなのに、とても深く奥行きを感じる。しかしここで気づく。ケイコはろう者である。今自分が聴こえている音、声、全ての聴覚を介する情報はケイコには伝わらない。音とは、声とは、いかに重要であるかに気づかされる。いや、重要という言葉は不適切だろう。その重要性すら身をもって感じることができない人がいる。健聴者にとって重要なのであって、ケイコたちろう者にはそういう話ではない。これはとても難しいしデリケートな話である。しかし我々視聴者に強く届くのは、やはり音であった。並みの映画とは桁違いに音声の情報量と深みが違う映画であるのだ。ろう者を扱った作品ではよく、ミュートが使われる印象がある。CODAでも合唱が全てミュートになり、主人公の両親の主観的な視点(ここで言う"視点"は視覚の話ではない。)に立つ場面があった。静寂に包まれる劇場。スクリーンに映る映像だけの情報を視(聴)者は享受する。しかし本作は違う。真逆。スクリーンには平凡なシーンが映る。音響で、その方角や奥行きで、周囲を判断する。というよりそれが出来る。こりゃまた凄い映画だと既に確信した。
場面は流れケイコの日常が映し出される。まさに日常。帰宅、起床、通勤、仕事、本当に何気ないシーンである。それでも耳は休んでいられない。日常の音全てが聴こえてくる。それが美しいのだ。最近外出時はイヤホンをしているから気付かなかったが、日常の音はとても美しいものであった。美しいというのは、自然の音ではない。舞台は都内なので車も電車も人もよく通る。でもそれらが美しい。本作は河川敷が度々登場する。鉄道橋が双方に伸びているので電車の音がかなり大きいし、車通りも多い。そこでアクセントとなるのが、荒川の音。唯一聴こえる自然の音である。耳が癒されるような本当に美しい音だ。しかしここでもまた気づく。ケイコには何も聴こえていない。普通、視聴者は主人公の立場に立つべきだし、制作側もそうさせる。なのに本作では、意図して音を我々に、我々だけに味わわせる。これでいいのかと不安になる。自分だけが音の美しさに触れ、満足し、それでいいのかと。

しかしそういった思考は馬鹿げていた。浅はかだった。ケイコは、ごく普通の人間である。等身大の人間。我々と何も変わりないのである。そう、この映画は優しく教えてくれた。好きなことを続けていくべきか悩んだり、友達とお茶したり、朝ランニングをしたり、職場で先輩に褒められたり…我々の人生と変わりない。やはり何気ない日常も長く続くが、その意味が徐々に大きくなっていく。ケイコが我々と同じように、特別でもなんでもなく描かれていることで、非常に親近感が湧いた。それでも音がわかる我々は、彼女を見守るのがいいのだ、と思った。我々も同じような経験をするし、同じような困難に出会う。それをケイコはどう乗り越え成長していくのか。音も意識しながら見守ると良いのだと思う。もしくは、音を踏まえてケイコの人生を追体験するのもいいのだろう。ケイコは気付かない周囲の音、声、それらを我々は感じて彼女の人生を生きるのだ。椅子に座って鑑賞するだけの我々は、そうすることで、ケイコ、そして原案及びモデルの小笠原恵子さんへ感謝と敬意を表すことができると思う。
ケイコ役には岸井ゆきのさん。迫力あるキャラでも特徴的な性格でもないケイコなのだが、この役を完璧以上に演じてみせた彼女は素晴らしい。実際の撮影は耳が聞こえているわけだし、手話もボクシングも初めてだそう。なのにケイコが、耳の聞こえないプロボクサーのケイコが、生きている。凄い。心から感動した。

他にも、16mmフィルムの映像の美しさもいい。荒川近郊という下町の、どこか哀愁漂う雰囲気がよく表れている。古びていて薄暗いジムや、ケイコの温かなアパートの一室など、美しい映像である。
また、途中で出てくるケイコと弟の会話(手話)シーン。まるでサイレント映画のように、映像と映像の間に暗転が挿入され、そこに先のシーンの手話の訳が映る。一度手話を見せる。そしてその訳を見せる。この演出は実に素晴らしいと思う。人間、字幕が下にあるとどうしても見てしまう。それでは役者の表情や手話が見えない。だからこの手法によって、一度落ち着いて彼女らの手話を見ることができるわけだ。それも実際少し重めの話。より表情や手話から感情が伝わってくる。過去にこういった作品はあるのかもしれないが、いやはやこんな表現方法があるとは、驚いた。

そしてケイコの周りの人たち。お母さん、弟、弟の恋人、ジムの会長夫妻、トレーナー、友人…。彼らは全力でケイコを支えている。あからさまで綺麗事のような台詞は一切ない。それでもケイコのことが好きで、支えているのがよく伝わってくる。現実のような人間関係と会話である。だからこそこの映画に感動し親近感が湧くのだろう。会長のインタビューでの回答。「(ケイコは)才能はないかなぁ。…人間としての器量があるんですよ。素直で率直で」こんなこと、ケイコのことをよく知らないと言えないだろう。会長もみんなも、ケイコのことをよく知っているし大変さもわかっているからこそ気にかけてくれているのだ。誰しも一人じゃない。辛い時悲しい時、常に寄り添ってくれる人がいるのだと、本作は教えてくれた。これは健聴者でもろう者でも関係ない。人間誰でもそうなのだ。


90分と短くエンディングもあっさりで観やすい映画だったが、強く心に残った作品だった。ろう者を扱った作品ではあるものの、耳の自由不自由はここで述べるべきではないのだ。音が聴こえないとて我々と大きな違いはない。ボクシングにおいて致命的なハンデであると語られ、コロナ禍での一層の苦悩も随所に演出されたが、それらは割とあっさり。他の映画ならもっと重く取り上げるであろうテーマを今作はあえて浅くし、加えて音響に力を入れた。それによってケイコに、ろう者に、とても親近感を感じさせたのである。世の中には色々な人がいるが、だからといって区別するのは間違っている。多様性の現代、難しい話ではあるが、きちんと考える必要がある。ちょっとした意識の転換で変わることだ。その転換点、きっかけを、この作品はくれるのだ。

映画館からの帰り道。夜の丸の内。イヤホンはせず、周りの音に意識を向けた。電車の音、人の足音、話し声、お店のBGM、駅の改札の音...。美しい音に包まれて、少し元気をもらえた。
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