キュラソー

左様なら今晩はのキュラソーのネタバレレビュー・内容・結末

左様なら今晩は(2022年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

原作は未読。

冒頭、久保史緒里演じる幽霊のセリフがいかにも「設定の説明」という感じで、悪戯っぽさも含めてどこかノギザカスキッツ(深夜のコント番組)のような感触もあり、映画としてこれが続くとなると、98分といえどさすがにしんどいなと一抹の不安を覚えた。

だが、この不安は良い意味で裏切られる。以後、「設定の説明」など一切放棄した形で進められるからだ。久保史緒里が萩原利久の喉仏を触ることに成功できたのは何故だかよくわからないが、特に説明もなくただ触れたことを喜ぶばかりだ。その後彼らは距離を縮めるごとに、それが当然であるかのように頭を撫でたり抱きしめあったりする。ある日、ベランダまでしか出られなかったはずの久保史緒里が萩原利久にデートを持ちかけるが、萩原は外に出ることに対して深くは追求せずそれを受け入れる。最初は久保史緒里が食べても減らなかったプリンも、最後にはしっかり無くなっているが、「何故か?」と問うのはもはや無粋というものだろう。全ては「起きてしまったこと」として見せることで、言葉での説明を放棄し、言葉での問いを曖昧なものにしてグングンと先へ進んでいく。このスピード感が、やがて萩原利久の元を去っていく久保史緒里の存在の刹那的な不安定さと相まって、込み上げてくるものがあった。そういえば、彼女はなぜ死んでしまったのだろう?「あの時間は妄想だったのではないか?」という不安を伴った問いは、曖昧なまま呆気なく目の前を通り過ぎていくこの映画を見るわれわれのものでもあるが、映画を見ることの快楽の一つもそこにある。

正直、難点はある。途中まで幽霊はベランダよりも外には出られないことになっているから、必然的に室内劇にならざるをえず、新人格の会社員が住むアパートの部屋の狭さも相まって息苦しさがあるのは否めない。場面転換が豊富で、かつそれぞれの場面で的確な撮影や演出を積み重ねることによって奥行きを見せてくれるような作品を好んでいる者として、これは致命的だとも思える。しかし、上述のとおり、漫画や小説と違い観客の意図に関わらず先へと進み、待ってはくれない映画の特質が存分に発揮されており、大満足でした。
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