めぐみあゆ

重力の光 : 祈りの記録篇のめぐみあゆのレビュー・感想・評価

重力の光 : 祈りの記録篇(2022年製作の映画)
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うちはクリスチャンホームだったので小さい頃からプロテスタントの教会に通ってた、中学2年生の頃、部活が忙しくなって日曜日もつぶれてしまうようになるまでは。自分が行ってた教会はいまになってわかるけどほんとうに自由で、規律なんてないようなもので来るもの拒まずの世界だった、いやそんなものじゃなく、愛としか呼べないようなケアの力がさわやかに満ちた場所だったと思う。いろんな人がいた。それこそホームレスのおっちゃん、元ヤクザのおっちゃん、学校や会社がくるしい人、家族が苦しい人、ただ聖書を学びたい人、自分のかたちを確かめるために来る人、息を抜きたい人。突然いなくなる人もいた。自然が豊かな場所だったから、わたしはほとんど遊びにいってるつもりだった。裏の竹林や草むらのなかでなにかを探したり、生っているざくろやきんかんを勝手にむしって食べたり、拾われてきた犬と一緒にいたり。でも、ワーシップソングを聞くとどうしようもなく涙が出てくるのはいつもそうだった。歌は人を無防備にするんだと思う、「手放す」ための歌ならなおさら。わたしはいまでも祈る。自分がくるしいとき、誰かを思うとき。祈りはあまりに身近にあって、幼いわたしが仲のよかった女の子から仲間はずれにされていた頃、かなしくて泣きながら祈った日のこともときどき思い出す。ずっと、どうしようもないなにかを抱えたときにそれを手放す方法のひとつになっている。
大学生の頃、教会の言葉はかたいのがもったいないなあと思っていた。多くのクリスチャンコミュニティ内で使われている言葉はもう古すぎると思っていた。それから翻訳というものを学ぶにつれ、すべての翻訳はどうしてもずれを含むことをいやというほど知って、世界各国の言葉で訳された聖書について思った(ひとつひとつ少しずつ別物と言えると思う)。聖書には歴史的記述の側面と、かみの言葉を預言として受け取った者たちが書き記した箇所とがあり、そこにもべつの翻訳のいとなみがなされている。それでも、わたしはゴスペルの歌が伝えるようなエッセンスを体感してきて、そこにはみんなが共有できるなにかがあると思う。それはたぶん、ケアの力だ。あるいは、許しの。

重力の光を見て、涙が出てくるのはゴスペルにふれるときと同じだった。ほんとうに安堵している人を見るのは喜びなのだ。
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