このレビューはネタバレを含みます
俳優の演技と音楽で何となく感動させられてしまったが、何で感動したのか鑑賞直後にはわからなかった。
確かに、劇場内にはすすり泣く声が聞こえ、観客は満足したかに思えた。だが彼らが果たして感動の正体を理解していたのだろうか。
舞台原作なのか、物語のほとんどが主人公の住む家の中で展開される。1シチュエーションだからこそラスト、ドアからの外光や回想シーンの浜辺が効いてくる。
超肥満体で自立歩行できないためリビングで一日の大半を過ごす中年男。
ハッキリ言ってクソである。嫌悪感を抱く人もいるだろう。例え彼の行いが高潔なものであったとしても。
しかし大きな間違いをおかした人間が、その間違いを埋め合わせることなど到底無理なのだ。そんなことを描く物語ではない。では何を伝えたかったのか。
どんなに邪悪な魂の持ち主であろうとも、ただ信じてあげること。信じることしかできないこと。誰にも信じてもらえていないばかりか、邪悪とさえ思われている娘を信じられるのは悪人である自分だけだという自負。
チャーリーは、8歳の娘が書いた感想文を読んだときから、自らを人の心を持たない無慈悲な鯨になぞらえるようになった。
エリーは「鯨を殺したところで何ら人生が好転するわけではない」とわずか8歳で気付いていた。
『白鯨』が彼女に与えた影響はかなり大きい。感想文を読んでその感動の大きさを理解した父は、自分の行動を深く反省したことだろう。
彼女は反抗期ではなく、むしろ逆で、悟りきっていた。
そのことがチャーリーには辛かったのだと思う。他でもない自分のせいなわけで、何とかしないといけない。だから自力で立って歩こうとした。自分が人生に失望していても娘が失望するいわれはない。
しかし、この口の悪い最愛の娘によって重たい身体から解き放たれる。チャーリーにとって死は肉体からの解放であったが、最後に希望を見せられたことで、心まで軽くなって飛び立った。