本入れという新たな用途を与えられた鍋掴みは、幼子の手に渡った途端、パンチンググローブという別の存在目的への変更を余儀なくされる。マルセルデュシャンが便器に「泉」の題を付したように、対象の存在目的がいかに不安定で一方的であるかを、さりげなく、しかも無計画な形で提示したこのシーンは、本作をもっともドキュメンタリーたらしめる瞬間だったように思う。
そして事物の目的を判定する人間の存在目的もまた、不安定であることは言うまでもない。ゆえに夜には死にたくもなるのだが、だからこそ、「春原さんのうた」同様、玄関扉は日の明るいうちに開け放つ必要があるのだと思った。