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ぼくらのよあけのtrickenのネタバレレビュー・内容・結末

ぼくらのよあけ(2022年製作の映画)
4.9

このレビューはネタバレを含みます

今井哲也による2011年刊行の二巻完結漫画『ぼくらのよあけ』を、キャラクターデザインと年代設定を変更してアニメ映画化した作品。

本作を手掛けた黒川智之(監督)が

>子ども同士の関係性、子どもたちと親との関係性、ナナコのようなAIとの関係性、「黎明号」という地球外生命体との関係性〔中略〕この四つすべてを取り上げて一つの作品で描き切った作品は、少ない〔中略〕。そこが原作を読んだときに一番感動して「これは2022年にやる価値がある、やるべき作品だ」と思ったところですし、原作最大の魅力
>(2022-10-22 WEB 声優MEN with girl インタビューより)

と述べた通りの、複数のプロットを同時に消化/昇華した原作の魅力を、アニメ映画として余すことなく再構成〔リビルド〕することに成功した作品となっている。

後に指摘するように原作固有の描写とは異なるアプローチを採用している箇所も幾つかあるものの、それは映画ナラデハの表現を実現させるために理解でき、かつ称賛できる決断としてほぼ納得のゆくものばかりである。いやむしろ、その数々の決断が功を奏しているために、結果として“まるで2011年の原作を初めて読み終えた時に近い感動”を、原作既読者に呼び起こさせることにさえ成功しているとも言える。原作のもつSF的世界構築と少年少女ジュヴナイルの複雑な織り合わせを、奇跡的な完成度の自律したアニメ映画として再び立ち上げてみせた映画スタッフの手腕は高く評価されるべきだろう。

【ジュヴナイル=夏にカップルや親子連れでみる映画】というステレオタイプ的な消費感覚からすると、10月公開はやや遅いタイミングのように感じられるかもしれないが、そうした多少の違和は他所に吹き飛ばして、誰でも映画館に足を運んで観てもらいたい。そういう非の打ち所のない傑作であることを請け負える。

ところで、ナナコが「二月の黎明号」と共に宇宙へ飛び立つことを決断し、悠真がそれに対して「どうしてそんなことするんだ、宇宙船のことは先送りにして一緒にいよう」〔大意〕と言ったところ、それに対してナナコが猛烈に反対する場面がある。これはどういう意味を持つのか、つらつらと考えていたところ、次のような理解に達した。

(a) この場面はまず、
オートボットに対して「宇宙の話を沢山する友達」という役割を期待し続けてきた悠真が、ついに自発的に宇宙のことを共に考えてくれる友人=ナナコを得たことがハッキリと示される場面であった。

(b) また、それだけでなく、ナナコと共に暮らし続けることに執着して宇宙に関する大事な目標を諦めかけた悠真に対して、ほかでもないナナコ自身が目標を捨てるなと、対等な立場――宇宙について考える友達同士――として叱責し、計画実行を改めて促す、という場面でもある。

(c) また、このような事象が起きたこと自体、悠真が常々「SH-IIIはすごいんだぜ」と口癖のように言ってきた当のSH-IIIの末裔たるナナコが立派に特異点超えを果たした瞬間でもあったということになる。

少なくともこの{a,b,c}3つが同時に生起している場面であるといえる。これらは、SFであり、友情ものであり、切ない別れの場面でもある。そういうことが、まるごとひとつの出来事に収斂していると言えるわけだ。

そういう理解に至った時、

「ああ、『ぼくらのよあけ』は、原作からすでに在ったこの場面も、そしてその場面を杉咲花と悠木碧の演技として再構成したこの映画も、素晴らしいものだったのだなあ」

と感動し直したのだった。


▼僅かな減点の事由

ほぼ完璧と言っても差し支えなさそうなアニメ映画版『ぼくらのよあけ』だったが、個人的に一点だけ気になったことがある。それはナナコが自分の自我がやがて消去される経緯について説明する際、ごく僅かに論理的な飛躍が見られる程度に説明が端折られているように思われた瞬間があったことだ。もう一度映画館でじっくり確認すれば、既存の説明で必要十分と思い直せるかもしれないが、現時点(2022-10-21)では確認が取れなかったため、そのぶんだけ減点とした。
とはいえ、基本的に他の映画ではいくらでも見つけられるような瑕疵が、驚くほど見つからない映画であることについては、論を俟たない。


▼原作と映画版の相違点を列挙する

ここからは原作との変更点および、そこから見いだされる映画ナラデハの軸を読み解くたびに指摘しておくべきことを列挙しておく。原作漫画/アニメ映画の差異とそれぞれの演出アプローチを確認する時に参考にされたい。

(1) 時代設定は原作漫画の2038年から+11年した2049年に変更されたが、「作中の“あの日”からの28年後」という相対的な時間経過は変更していない。これは「いまこの作品を観る世代から、その子の世代へ」の時間経過それ自体を尊重するために行われたものだろう。

(2) 原作では現役の団地として扱われ、1950年代末から戦後日本初期の代表的な団地風景として愛されてきた「阿佐ヶ谷住宅(団地)」は2013年に解体され、映画版が公開される現在(2022年)では景観として失われてしまっている。そのことを受けてか、映画版では「解体工事のため住人は引っ越しを余儀なくされている」という設定で物語は始まる。

(3) 原作からの最大の変更点は、「悠真がナナコを、一人の女性として恋した」、いわば初恋の路線で読み替え、それに基づいて作品を再構築〔リビルド〕したことだろう。原作では(ナナコの女性ジェンダー感や母親の補助役としての若干の煩わしさを超えて)“無二の親友”として接していた部分が大きいが、この読み替えは必ずしも原作の忠実な再演とは言えないところがある。ただし、その再解釈からプロットおよび演出方針を再構成することにより、この映画は映画それ自体の固有の力強さを獲得したと言える。この点はまず高く評価されるべきだろう。

(※この変更に伴い、序盤から悠真が「だってあいつ女だもん」などと、幼い男子なりに率直に発言していた台詞などが削除されている。これは映画を見に来た観客が悠真に悪感情を抱かせないヘイトコントロールとしても機能している。原作ではそういう台詞を無自覚に発言してしまう悠真の稚気がむしろ照れ隠しであると読み解けるが、映画で肉声で以って発せられると確かにどぎつい言い分であることも事実である)

(4) また、原作では「親子二世代によるファーストコンタクトの物語」として描かれたが、映画では(尺の都合もあり)親世代の貢献の度合いが多少切り詰められている。そのため、親世代の「青春」はモンタージュ映像として残ったが、親世代からの「貢献」については最小限のものとなり、二月の黎明号を宇宙へ帰す作戦の中軸はあくまで子供世代のみが担うことになった。

これについて原作者の今井哲也は、

>『ぼくらのよあけ』のアニメは脚本の佐藤大さんがどちらかというと思春期の子供と親のあいだには断絶があるものだと、むしろそこにロマンがあるという作風の人で、黒川(智之)監督もそっち寄りなので、映画はわりとそういう方向に振っていますね。それは僕のなかにはないタイプのロマンなんですが、面白いなと
>(『ユリイカ』2022年11月号、p.58)

と発言している。他方で今井作品は先行世代と後続の世代の(あまり断絶しない)継承の話を基礎モチーフとして描くことが多く、原作『ぼくらのよあけ』でも大人世代が活躍する風景を描いていた。そのため今井哲也自身から出てくる漫画作品論としては自然に要請されるものが、今回の『ぼくらのよあけ』アニメ映画にあたってはむしろ決断的に裁ち落とされていると言える。

しかし漫画版と映画版それぞれで描こうとしているものさえ見逃さなければ、この黒川・佐藤チームによる大人世代の扱い(切り詰め)は極めて納得の行くものであり、これによってむしろ映画としての洗練が促されたところがあるように思われる。

(4b) なお、この変更によって、ナナコとの別れのシーンで対面するのは、母(はるか)と悠真の2人から、悠真ただ一人に変更されている。この変更にも演出としての一貫性を有意に観察できる。

(4c) 悠真父(沢渡遼)の活躍の機会が減ったことにより、原作ではナナコに対して「特異点を超えた」と指摘する場面が削除されている。そのため、映画版ではナナコに対して「特異点超え」を指摘する者が不在となった。


(5) 主人公の悠真が住む棟の番号が「30号棟」から「31号棟」に変更され、30号棟は無人の棟として扱われる(二月の黎明号に係る屋上の装置は30号棟のまま)。また、これに伴い後半の「二月の黎明号帰還作戦」が、原作から大きく変更されている。この変更により、団地周辺の水道設備や、家具の取り払われた阿佐ヶ谷住宅の室内風景(昭和風の磨りガラスや浴室など)が、より贅沢に映し出されることになった。

(6) 男友達3人組のひとりである真悟が、リギング(ドローンの遠隔操縦技術)に長けた少年として描かれる。この能力は、原作から大胆に変更された「二月の黎明号帰還作戦」のクリフハンガー的な最終局面を担う技術として用いられ、帰還した真悟に具体的な活躍の場面が与えられるようになった。これは原作にはない要素である(原作の真悟は、姉のわこから家を追い出された後、悠真たちに合流するものの、具体的な作戦の補助は行わない。)

(7) 年長組としての銀之介(銀くん)が、幼い頃に父を喪失したこと自体は原作通りであるが、そこから派生して死生観について思い悩む様子については原作より大きくクローズアップされている。原作では二月の黎明号と三人が揃って死生観について議論をする様子があったが、映画版ではその話を二月の黎明号と交わすのは缶蹴り中の銀之介ただ一人である。また、このような経緯で死生観について決着をつけたことに伴って銀之介の悩みは昇華され、より前向きに気遣いができる人物として成長したものとして扱われる。たとえば銀之介が花香(ほのか)を要所要所でさり気なく(しかし責任をもって)エスコートする場面が何度か追加されている。

(8) 二月の黎明号が見せる「虹の根」の風景および、最後に飛び立つロケット形状のデザインが、原作から大きく変更されている。これは「二月の黎明号」関連の美術・コンセプトアートを担当した「みっちぇ」の手腕に負うところが大きい。

(9) 花香とわこが多少和解するきっかけとして、原作では花香が偶然わこの危機を救うことになる、「万引冤罪事件」と名付けうる名場面が存在する。ところが映画ではその場面が削除されており、代わりに花香が岸家の住宅を訪問するもわこに会えないシーンが追加された。この変更により、花香とわこの関係性は、(修繕しようとする意志が花香の側では明示されているにも関わらず、残念ながら)修繕される機会がないまま最終日を迎えている。この険悪なままの関係を率直に表現するためか、二月の黎明号が飛び去った後、何が起きたのかと訝しんで現場にやってきたわこに対して「あなたのこと好きになれない」と花香が一言告げるシーンが追加されている。

※とはいえ、そのまま愚直に原作を引き写していた場合、「近未来のコンビニがそのような万引冤罪を許すテックレベルなのか?」ということについて疑義が生じるかもしれなかったため、万引冤罪事件の削除は結果的によかったかもしれない。

(10) 原作では2コマしか存在しない、花香のカエル採りのシーンが大幅に尺を追加する形で演出されている。これによりヒロインとしての花香に注意が向くようになっている。映画ならではのリッチな変更といえる。
(またカエル採り直後の春香と岸わこの遭遇中、その写真を偶然クラスの女子に撮られたことが、映画版における「わこが仲間はずれにされる直接原因」になるよう変更されている。原作では「サブ」におけるより困難なSNS的ミスが仲間はずれの原因として説明されるが、この映画での変更は、仲間はずれの論拠としてより直接的なものになった)

(11) ナナコほかオートボットの質感が、金属感のある材質からシリコン樹脂のようなやや柔らかい物質に変更されており、映画内の演出もそのような質感のあるものになっている(ナナコの落下音など)。その他、自動掃除機のルンバのように収納時を想定したリデザインが施されているなど、各所に工業設計〔インダストリアルデザイン〕の考証が新たに施され、全体的なもっともらしさが高められている。これは映画版オートボットデザイン担当の鈴木匠(ソニーデザインコンサルティング)の貢献によるものである。

(12) 「帽子に演技させる」という手法が、映画では積極的に取り入れられている。悠真の帽子は「保護下に置かれていること」と「照れや本心をしばしば秘匿していること」を象徴するものとして。また春香の麦わら帽子は「煩わしい他者の女の子らしさ」(サブの子機)に蓋をしたり、逆に自らの女の子らしさを象徴するものとして、自在に運動する。
(そのぶん、原作の春香が時々被っていたハンチング帽ファッションは、おそらくキャラクターデザインの混乱を招かないようにするためにも、省略されている)

(13) 成長した沢渡悠真がナナコを追いかけて宇宙船に乗り込むエンディングが原作漫画の最後には存在するが、映画版ではこのシーンはカットされている。代わりに三浦大知の「いつしか」が黒地をバックにした、スタッフリスト以外一切無情報のスクリーンの中で響く。これは最後の悠真とナナコの別れの後のそれぞれの人生が全き可能性にひらかれていることを示唆するようで、むしろ引き算式で選び取られた素晴らしいエンディング演出であると思われる。(映画版の悠真は宇宙飛行士になってもなれなくてもいいし、映画版の花香とわこも仲良くなってもならなくてもいい、といったふうに。)
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