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ザリガニの鳴くところのlentoのレビュー・感想・評価

ザリガニの鳴くところ(2022年製作の映画)
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女性性に宿るトポス(場所)がどんなものであるのかを、これほど雄弁に、そしてシンボリックに(象徴的に)描き出せた作品は他にあっただろうか。観終わって時間が経つほどに、このことが静かに、胸の奥に帳(とばり)を降ろしていくような印象があった。

映画作品としては、冗長さも含め、ベストセラー小説を原作にもつことの難しさを感じさせるいっぽう、しかしだからこそ、女性として生きることの原風景が、映画の語りとしては瑕疵(かし)とも言える、そのもどかしさから切実に伝わってくるようでもあった。

なぜ、カイア(デイジー・エドガー=ジョーンズ)は、あの場所(トポス)から離れようとしなかったのか。

孤独に生きることと、怯えて生きることはまるで違う。印象的にモノローグされるこのフレーズは、映画のエピソードのなかで直感的によく理解できるシーンと紐づいているものの、たぶんきっと、男性性寄りに生きる僕が思うよりも、ずっと深い場所にその核心や本質はある。

そうした暗喩の深みとして、marsh(湿地)は描かれている。

いっぽう、全編を通して挿入される法廷の場面については、かの地に生きることの、個人主義やルーツに関する原風景と無縁ではないはずであり、とくに最終弁論として語られる言葉は、法廷ドラマを観るたびにいつも感心するように、とても巧みで感動的なものだった。きっと間違いなく、言論を信じるという根源的な姿勢は、個人主義やルーツという風景から深く立ち上げられている。

様々に描かれる登場人物については、すべて僕自身を投影できるところがあり、誰1人として僕自身にその要素を感じられない人間はいなかった。ただ1人、主人公のカイアだけが僕にとっては他者として存在する。

貧しいながらも子供たちを豊かに愛し、やがて酒乱の夫の暴力に耐えかねて出て行った母親。そのあとに続いて、次々に出て行った兄弟姉妹たち。そして酒乱の父親にしても、僕自身の影のように感じられた。初恋の相手であるテイト(テイラー・ジョン・スミス)が、大学進学のために彼女を捨てた姿も僕のようであり、その後のカイアと関係を結ぶチェイス(ハリス・ディキンソン)の、身勝手で幼稚で暴力的な人格も、まぎれもなく僕自身のなかにある。

また、彼女を湿地の娘(marsh girl)として忌み嫌い、偏見に満ちた態度で接した町の人々も同様で、しかし、そうしたなか手を差し伸べた雑貨店の黒人夫婦も、彼女を支えた弁護士にしても、やはり僕自身の投影として感じられた。

そのように、主人公として描かれるカイア以外は、すべて僕自身のようだった。そしてラストで明かされることになる、ミステリー(謎)として語られた真相についても、同じ事情のなかにあるような気がする。

それは、フーテンの寅さんが、毎回帰ってきて、毎回振られ、毎回旅立っていく理由が、日本的で男性的な原風景に支えられているのと同様、もしくは裏返すようなものであり、女にとって、その場所(トポス)で起きたことは、公平性や公正性などに照らされる以前に、すべて超法規的なものとなる。

marsh(湿地)とは、そうした場所(トポス)を象徴性のうちによく表している。この映画を観たあとでは、女性性に宿るある側面を、「marsh」として端的に語ることができる。シンボル(象徴)の持つ力は、いつでもそのように表れるのではないか。
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