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ブエノスアイレス 4Kレストア版のmのレビュー・感想・評価

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“Lai Yiu-fai, let’s start over.”

以前他のユーザーさんと、ウォン・カーウァイの映画制作やトニー・レオンの演技などについてお話をする機会があり、その時に自分の意見をまとめてみたので、唐突だがここに載せておく。

✂︎

ウォン・カーウァイの、トニー・レオンの魅力の引き出し方は多々あるが、まずはトニー・レオンの代名詞とも言える、目に関して。画面いっぱいに顔を映すことで、そうでない時はなかなか注目しづらい視線の動きが見事に強調される。惹かれる人を目の前にして伏せ目がちになった時のまつ毛や、はにかんだ時の下がった目尻、相手への愛おしさでいっぱいの瞳などが存在感を一段と増す。
またウォン・カーウァイは、息づかいを鮮明に伝えるセンスもずば抜けている。私たちの日常の会話には必ず余韻が存在し、それがもしも映画の中で感じられないと一気に現実とのギャップを自覚させられてしまうが、トニー・レオンの演技でその違和感を感じたことは一度もない。「台詞」を言い切った後の微かな口の開き具合や息を飲む時の喉の動きによって、そこにリアリティを伴った空間が生じる。言葉では伝達できない(私たちが名前をつけられない)、もしくは本人すら自覚していないような心情がそこに現れる。もちろんトニー・レオンに限らず、良い役者は意識的/無意識的にそれを実践しているのだろうが、ウォン・カーウァイはその機微を見事に掬い上げる才能がある、ということだ。
少し逸れるが、ウォン・カーウァイ作品における煙草もまた、会話の余韻を感じさせるのに絶好の役割を果たしている。音すら聞こえないほどのため息でさえも、煙草を吸っていれば口から吐き出される煙でそれを知ることができる。
煙草と言えば、本作品「ブエノスアイレス」の中では主役の2人が病院の帰りにタクシーに乗って煙草を吸うシーンが個人的には一番好きだ。怪我で両手が使えず隣で煙草を吸っているファイをただ見ることしかできないウィンの口に、ファイが黙って煙草を咥えさせてあげる。これだけで、長年を共にし言葉を超えて互いを理解している2人の関係性を鮮明に描き出してみせたのだ。そしてこの場面があるからこそ、その後の関係性の変化があれほどまでに辛く耐え難いものになると言っても過言ではない。
言うまでもなく、なぜ私がウォン・カーウァイの作る映画が好きかと問われれば、こうした曖昧な雰囲気の醸し出し方に惹かれた、というのが答えになるだろう。ウォン・カーウァイ監督は作品中に素敵なセリフもたくさん散りばめているが、それと同様かそれ以上に、言葉を用いずに「空気感」を鑑賞者に伝える技術は注目に値すると思う。(ただ、それが感覚的な性質が強いがために「雰囲気映画」や「おしゃれ映画」として片付けられてしまいがちなのがなんとも歯痒い。彼の作品が画として美しいのはもちろんのことだが!)
そしてその監督の個性とトニー・レオンの内向性との相性がいいのかもしれない、という一つの結論に至った。

さてここからは、演技というものについて私が考えることを、雑多に書き連ねていこうと思う。
「演技」というと、どうしても目的論的になってしまいがちなのが常であるだろうが、私はあくまで結果論的でないと、「作り物」にとどまってしまうと考える。役者の口から発せられるのは「台詞」ではなく、他でもない、実感に裏付けされ、内側から込み上げてくるような、体温を伴った「言葉」である必要がある。もちろん技巧的な演技の良さも分かるが、私が好むのはやはりどこかにリアリティを感じられるものだ。
ところで先ほど私が使った「結果論」という用語だが、これは一般的/日常的な「原因や経過を無視する」というような意味合いよりも、「目的論」の対義語としての性質が強い(適切な言葉が見つからなかったので仮に「結果論」としておいた)。
とすれば、いわば進化論的な「結果論」である──ダーウィンの進化論も、あらゆる生物は共通の目標に向かって進化していくとする考え方=発展的進化論を否定し、遺伝的性質の累積的な変化を経て偶発的に適者となった生物が生存するという理論=自然淘汰説を唱えることで、進化の過程を「目的」の観念から切り離した──のかもしれない。
私はこのダーウィニズムにおける進化を(いささか強引ではあるものの)演技に置き換えることができると考える。発展的進化論のもとでは「目的論」的思考が採用されるため、例えば目は物を見るために発達した、と考えられるわけだ。これを演技で置き換えると、こういう結末で終わらせるために、次に〇〇というイベントを起こす必要があるが、そのためにはここでこの表情でこの台詞を言わせる必要がある、といったような感じだろうか。しかし一変して、ダーウィンの進化論のもとではあくまで「結果論」的思考が採られるため、物を見るために適した形質を持った個体が(たまたま環境に適していたので)生き残って子孫を残した結果が我々であり目である、ということになる。こちらはなかなか演技で例えにくいのだが、作品の撮影をしてはいるものの、その中での「今」を重ねていった先で結末という一つの「形」に自然となっていく、とでも言っておけばそれなりの説明にはなるだろう。
ウォン・カーウァイの映画制作は後者の良い例だ。彼は、あらかじめ脚本で全てを決めてしまって、現場でその筋を追わせるというより、役者には全体像ははっきり知らせないまま素材をたくさん撮って、その後にカットをするなどして作品を一種の「完成」に持っていく、というスタイルをとることで知られている。
そして私は個人的に、映画とは、そして演技とはあくまでそのようにあるべきものだと思うのだ。映画や演劇の世界は(物語=二次的体験という意味で)フィクションに過ぎないが、それでもその世界に住むキャラクターたちはそれぞれの人生を生きている。「過去」を背負った「現在」に取る行動や放つ言葉は、「未来」にある目的から逆算して生み出せるものではないのだ。
ただし、目的論的な方が作品として綺麗にまとめやすい上に、人間の自然な思考法に近い──キリンの首が長いのは高いところにある葉を食べるためだ、と当然のように考えている子どもは多いことだろう──ため、鑑賞者からすれば潜在的にしっくりくることも多いはずだ。この領域になってくると、もはや良し悪しの問題を超えて好みの問題であり、どうにも収集がつかなくなってしまうので、私の呟きはここで終わりにしたいと思う。

結局、私はウォン・カーウァイ作品が大好きなのだ。そして、トニー・レオンが大好きなのだ。ピリオド!
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