Paula

クライムズ・オブ・ザ・フューチャーのPaulaのレビュー・感想・評価

1.0
Caprice:I don't think you should have
    invited those two creeps from
    the registry to our show.
Saul Tenser:Why not? Why not get'em
      on our side?
Caprice:I don't trust them.
    The woman, Timlin,she's,
    uh...  especially creepy.
Saul Tenser:Hm. I thought she was
      rather attractive.In a...
      bureaucratic way.
Caprice:Hm.
上記のセンテンスは前半の部分でのソールと彼のパートナーであるカプリースの会話の一部抜粋... 物語の重要な会話ではないので視聴者の皆様は無視しても構いません。ただ、あたしにとってはとっても思い入れのあるセリフで特に "especially creepy" というくだりは、思いのほか気持ちがよく、しかも同意見なので思わずふいちゃいました。何故って、だって、あたしの一番嫌いな女優さんに対してだからです。この人、根暗な役ばかりをし、そればかりではなく明るいポップな映画ですら暗いオーラを放ち、生き物で例えるなら脂ぎったゴキちゃんかな⁉ それが居たらそのカサカサ動く気配で暗闇でも分かりますもの... 私的な事でどうもすみましぇーん。

そんなこんなで...
話は変わるけど、あたしの中ではポップ・カルチャー的サイケデリックによる変態3人衆がいる。その一人、本作の監督さんで『裸のランチ』も監督を務めた方で皆様、よくご存じのデヴィッド・クローネンバーグ監督さん。その『裸のランチ』を改変されまくった原作者でありドラック・アディクトのウイリアム・バロウズさん。そして最後に控えている二人とはあまり関係がなく時代がずれるけれども薬物小説といえば『知覚の扉』で知られ、いろいろなドラッグを試しまくった薬物界の巨人でサブカルの代名詞 "サイケ" の生みの親でもあり、また『The 27 Club』の会員の一人が彼の執筆した本『知覚の扉』よりバンド名をフォローしたその著作者、オルダス・ハクスリーさん。
映像作家や小説家や、また科学者としての3人3様の異なるアーティストというよりもどちらかというとユングが唱える『シンクロニシティ』(共時性)として宗教の教祖的存在と思える彼らの生産物に対して単純に "良いのか?それとも悪いのか?" "理解できるのか?できないのか? "芸術と呼べるのか?お下劣ないのか?" という 究極的ジレンマにだけを誇りにし頼るような自己顕示的シンボライズとして個人的には捉えている。

芸術に関する双極子的一場面...
ⒶThat's a good painting, isn't it?
ⒷYes.Yes, it's a Picasso.
ⒶPeople don't look like that.
ⒷWell, of course they don't.He's not
 trying to draw a face as it is. He's
 trying to express a face as he sees
 it and feels it.
ⒶBecause he sees it that way, that
 makes it good?
ⒷBut it's not a photograph.
ⒶWhat's wrong with photographs?
ⒷNothing wrong with photographs.
ⒶPhotographs don't lie!
ⒷNeither does this. it's... It's a face
 from all different angles.It's a
 character behind the face.
ⒶIt's just a joke, that's all it is. It's
 just a bad joke.
ⒷJust because you can't grasp it right
 away...
ⒶWell, how do I grasp it?
ⒶⒷはそれぞれ男の人と女の人で個人的にはどちらも正論のように思えるけれども実はセリフはもっと長くて、しかもワンカットで撮影されている。今だから彼らの大変さがわかるのは、この映画を撮影した人が、女優をノイローゼにさせるほどの完璧主義のキューブリックを一蹴するほどの超が付くほどの完璧主義者でよく二人はやり通したと思える。セリフの終わりには女優さんが泣き崩れてしまうのだけれども今観ればそれも特異な演出として理解できるし、彼らの努力が二人ともカンヌ映画祭の男優、女優賞を獲得し実を結んでいる。めでたし、めでたしってか?だって虐め好きのユダヤ人も監督賞を受賞していますもの⁉

映画の冒頭、ギリシャ神話からなぞらえた『メディア・コンプレックス』を意味する場面が登場する。その要件は映画のラストまで引っ張るのだけれども、その性質自体が悲劇ではなくて、しかも感情的でないただ単なるプロット・ポイントでしかなく、そのことより本作『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』そのものが、”コンセプト・フィルム”... 意図・目的・思い等の概念を有し、これを表現しており、心で感じ取ったものを映画という3次元空間化したものと思える。そのことはかつて日本の小説家が真似をした殉教者聖セバスチャヌスを表している場面でもあり、そのことから受け手の感じ方によって新たな概念が付加される場合があり、作品に接する時代性や社会的価値観などの変化に伴って変わることがあるとされている。
確かに久しぶりに見るクローネンバーグ監督によるギミック・アートは『裸のランチ』の時よりは進化しているようにも見えるし、停滞しているようにも見える。
主演のソールを演じたモーテンセンがなぜか?場面場面で座っているシーンが多いのかが疑問だったのが、アメリカのケンタッキーダービーで馬にぶつけられた際に大腿四頭筋外傷を負い、その結果2分以上立っていることができなくなったとされている。そしたら代役を出しても良かったのでは思ってしまう。そんなツマヅキも含めて近未来なのになぜかアナログな小道具が並べられ、それに伴って足を引っ張るようにオペレーション・ショーを見せる現場が恐ろしく古く清潔ではない。その映像を観ているだけでディストピア観が前出のウイリアム・バロウズが名付け親的存在の1982年の『ブレード・ランナー』に被るように映り、しかも最後の方ではソールそのものが故ルトガー・ハウアー演じるレプリカントのロイ・バッティに見えてしようがなかった。あくまでも見る受け手の感じ方に左右されるコンセプト・フィルムなので... 失礼しやした。

本作とピカソの絵に関しては、蒙昧なあたし自身Ⓐのフレディ押しなので残念ながら映画はドッチラケーで動画しているぜ‼  
ファンの皆様、またまた失礼しやした。
Paula

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