くまちゃん

劇場版 美少女戦士セーラームーンCosmos 前編のくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

3.8

このレビューはネタバレを含みます

今作は原作の第五部シャドウ・ギャラクティカ(セーラースターズ)編を基にしている。専門用語や魅力的な新キャラが乱立しており、目まぐるしく展開し続けるアップテンポなストーリーは明らかな情報過多であり、難しい内容ではないはずなのに油断すれば置いていかれる。1クール分を1時間半に無理やりねじ込んだかのような密度の濃さがある。

内容はハードかつ鬱展開を見せ、かつて女児アニメの金字塔と謳われたオリジナル要素の強いTVシリーズとは一線を画し、「Crystal」以降出来得る限り原作に準じた結果、現代の大人が見ても楽しめる作品に原点回帰を遂げている。
ちなみに元々メディアミックス企画での連載だったため、TVシリーズにおいても「セーラースターズ」として放送されている。

地場衛はアメリカへの留学が決まり、うさぎとのしばしの別れを惜しむ。空港で熱い抱擁を交わし、優しく唇を重ね、指輪をプレゼントし、愛を囁く。知的で誠実で一途で正義感が強い、こんなイケメン現実にいねーよとその存在を否定したくなるほどの白馬の王子様ぶり。
そんなドラマチックなトレンディの刹那、衛はセーラークリスタルを何者かに奪われ、その肉体は砂塵と帰す。
セーラー戦士の核はセーラークリスタルに濃縮されており、それが奪われると肉体が滅ぶらしい。

敵の凶刃に次々と敗北するセーラー戦士達。うさぎの大切な者たちが一人また一人と失われていく。内部太陽系戦士は当初それぞれが孤独を抱えていた。水野亜美は明晰な頭脳故、火野レイは生まれ持っての霊感故、木野まことは恵まれた体格と怪力故、愛野美奈子はセーラー戦士としての早すぎた覚醒故。そんな彼女たちを持ち前の明るさと猫のような人懐っこさで瞬く間に繋いでいったのはうさぎだった。
うさぎの周りには常に友人たちがいた。
プリンセスであったがための不思議なカリスマ性なのか、純粋な育ちのせいなのか、判別は困難だがうさぎは人の温かみの中で平凡ながらも幸福な人生を歩んでいた。
そんなうさぎが初めて直面する絶望的な孤独。眼前で砂となって消え去る仲間。ショックのあまり蓋をしていた記憶の一部が蘇る。そうだった。衛は消えたのだ。うさぎの心が静かに崩壊を始める。

第五部シャドウ・ギャラクティカ(セーラースターズ)編はシリーズ最終章でもありセーラー戦士、特にうさぎに対してより一層過酷な試練が与えられる。
セーラーギャラクシアはラスボスには相応しいが少女コミックには相応しくない巨悪の権化。シャドウ・ギャラクティカに行こう。みんなを救うために。そう決意するうさぎの前に彼女は現れる。
それで本当に仲間を救えるのか?その行動に意味はあるのか?消えた仲間はすでに死んでいるのではないか?助ける術はないのではないか?
古今東西、仲間が窮地に陥った場合何かしらのエクスキューズが用意される事がほとんどである。敵を倒せば仲間は助かる。その根拠のない自信に観客は誘引され、デウス・エクス・マキナによって原理は不明だが死亡したと思われた仲間が助かる。この展開に慣れ親しんだ多くの観客は無意識にセーラーギャラクシアの打倒は平和に直結すると信じて疑わないだろう。
だからこそセーラーギャラクシアの指摘は緊張感を増す。確かに、シャドウ・ギャラクティカへ行き、セーラーギャラクシアを倒すことが希望である保証はどこにもない。彼女の言葉は、うさぎだけではなく我々観客をも揺さぶるのだ。

愛のためのリインカーネーション。残酷な過去を乗り越えたセーラー戦士に立ちはだかる果てしなく大きな壁。
セーラー戦士はそれぞれ惑星を守護に持つ。うさぎは月、衛は地球。最後の敵はセーラーギャラクシア。ギャラクシー、つまり銀河を司る者。作品世界を象徴する宇宙そのもの。これは絶望への序章に過ぎないのか…
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