くまちゃん

ミッシングのくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

ミッシング(2024年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

役者はいくつになっても成長できる。たとえそのキャリアの大部分を請け負った仕事によって形成されたパブリックイメージが独占していようとも。本人の覚悟次第で如何様にも脱却することが可能である。そこには甘く心がとろけるような恋愛ドラマに出ずっぱりだった美少女の面影はない。あるのは覚悟を決めた母の姿。石原さとみは吉田恵輔に直談判を決行した。自分の殻を破るために。役者として次のフェーズへ移行するために。しかし当時は断られ、数年の時を経て連絡があった。あなたのためにシナリオを書きましたと。石原さとみの申し入れをその時受け入れていたとしたら、これほどの衝撃は与えられなかっただろう。時間が石原さとみの人間性を醸成させた。その間彼女は結婚し出産し母になった。今の石原さとみだからできる事。「なま夏」から始まり独自の指針が確立された今の吉田恵輔だからできる事。今作は「空白」の延長線上にある。石原さとみと吉田恵輔、各々の歩む軌跡が交わる時、究極のエンターテイメントがここに誕生した。

子供が失踪するという現象自体ニュース映像で良く見聞きするものだ。それは決して特別なものではなく古今東西誰の身にも発生しうる。故に映画でも古くから扱われてきた重大なテーマである。類似作品では多くが家族団欒の何気ない幸せな日常を映し出し、子供がいなくなった後の絶望の対比として演出される場合が多い。だが今作は家族の仲睦まじい様子などない。冒頭提示されるオープニングイメージは後に失踪する少女が楽しく遊んでいる姿。それは家族の幸福という抽象的なものではない。親目線。父と母による視点で描かれている。この二人にとって如何に娘が大切な存在だったのか、如何にその時間が尊いものだったのか、映像から汲み取れるその具体性が強く激しく訴えかけてくる。娘は自分たちの全てだったのだと。

沙織里は愛娘の美羽を弟の圭吾に預け、友人とライブに出かけた。熱気が充満し、盛り上がりも最高潮に達する中で、沙織里のスマホに不穏な知らせが届く。美羽が帰ってこない。普段なら圭吾が家まで送ってくれるのだがその日に限って自宅まで5分の距離を一人で帰したというのだ。その数百メートルの空間で美羽は忽然と消えてしまった。まるで神隠しにでもあったかのように。
この出来事は沙織里の心を徐々に蝕み、壊していった。パサついた髪が、渇いた唇が、目の下の隈が、彼女の苛立ちを際立たせる。毎日毎日ビラを配り情報提供を募る日々。事件発生当初は全国ニュースで取り上げられたが、今では世間の注目が逸れ地元のローカル局でしか扱われない。世の中的にはもうすでに終わった事件なのだろう。少しでも手がかりを掴めればとパソコンを開くが、そこには心無い誹謗中傷が溢れている。心身ともに疲弊の一途を辿る沙織里。親の自作自演、親が殺した、遊ぶために娘を預けた最低な母親。娘捜索用のホームページにはそんな書き込みが氾濫している。SNS時代の深い闇。ネットの無責任な書き込みがどれほど人を追い詰めるのか、どれほど人を傷つけるのか。人間は愚かだ。そんな過ちを幾度繰り返してもまた忘れてしまうのだから。沙織里はそんな匿名の声に反応し、反論することもあった。豊は見なければ良いという。沙織里も見たくはない。だが、それでも見てしまう。傷つくとわかっていても、一つずつコメントを追ってしまう。この行動が沙織里の心を破壊した要因の一つであることは間違いない。娘失踪事件と世論の無神経な匿名性によって沙織里の精神は何度も何度も殺され続けたのである。

沙織里の夫である豊は常に冷静であろうとする。沙織里は美羽の失踪を機に暴走する事も多い。自分に当たられる回数も増えた。私は苦しい、私は悲しい、私は美羽が心配、あなたはなぜそんなに冷静でいられるの?探す気ある?真面目にやって、温度差を感じる、そんな妻からの指摘の数々はただの八つ当たりに過ぎない。本人は自覚がないが沙織里自身が気にするネットの誹謗中傷のそれに近い鋭利さがある。娘を心配しない訳が無い。だが沙織里に強く言い返すことも憚れる。美羽の失踪で一番責任を感じているのは沙織里であることを知っているから。沙織里は美羽を預けてライブに出かけたことを強く悔やんでいる。沙織里も豊も美羽に無償の愛情を注ぎ大切に育てていた。親も人間だ。疲弊した肉体と精神をリフレッシュする機会がたまにあってもいいだろう。家族のため犠牲にしてきた全ての時間を取り戻すように沙織里はライブを楽しんだ。ほんの細やかな自分へのご褒美。沙織里はこの時の自分の幸福を恨み、自分を責め続けた。豊の気持ちを思うと胸が締め付けられる。娘がいなくなったことで、愛する妻までもが脆く崩れ、壊れていく様をただただ見守ることしかできないのだから。
沙織里の言葉の一端は豊の胸を深く抉る。もう一端は沙織里の胸に突き刺さっている。焦燥と憤怒に呑まれた沙織里を支えるには自分は冷静でいるしかない。たとえ毅然とした態度が沙織里の癪に障ったとしても。
他人の子供を見て独り顔を歪める豊。この涙は沙織里に見せるわけにはいかない。それが夫としての自分の努めだ。

凄惨な事件に直面した時常にマスコミの在り方が問われる。視聴率を優先させた題材や構成を選ぶのか、事件解決に向けた建設的な報道をするのか、事件当事者に寄り添うのか。記者である砂田もまた良心とジャーナリズムの間で葛藤していた。後輩の駒井は市長のスキャンダルを掴み強気な報道姿勢で自身のキャリアを大きく躍進させた。視聴率と自分の将来を考えれば駒井の仕事への向き合い方は正しいのだろう。器用だと思う。だが自分にはそこまで割り切れない。できれば森下夫妻に寄り添いたい。それが夫妻を取り上げる条件の一つでもあるから。
しかし事件は進展を見せず、いくら密着しても同じ画しか撮れない。仕方のないことではあるがTVとして成立させられないこともまた事実。砂田はこの仕事の意義を常に考えなくてはならない。自分は立場上中立でいなければならないはずなのに森下夫妻、特に沙織里と関わっているとどうしても感情移入せざるを得ない。取材に非協力的な圭吾にもついに声を荒げてしまう。砂田もまたこの事件の解決を願っていた。

沙織里の弟圭吾は無愛想で考えが読めない。美羽と最後にいたのは圭吾だがその日は家に送り届けず一人で家に帰したとのことだ。警察の取り調べや砂田の取材に対して返答は曖昧で不明瞭。ネットでは犯人の最有力候補としてあがっている。彼は犯人ではない。が、嘘はついている。自身の罪を隠すため嘘の証言をしていたのだ。それが余計に場を混乱させていた。沙織里との関係は悪化の一途を辿り、嘘がバレた際には「死ね」とLINEが届いた。それも沙織里はネットの誹謗中傷と同じことをしていることに気が付かない。沙織里にそんな心の余裕などなかった。
幼い頃、圭吾は知らない車に乗せられた事があるらしい。姉である沙織里も知らなかった。いや、言えなかったのだろう。性的被害には合わなかったが強烈な恐怖が心に残ってしまった。その過去と向き合い美羽がいるかもしれないと根拠のない行動に出た時、大粒の涙とともに謝罪の言葉が溢れてくる。震える唇からは申し訳ない気持ちとまた美羽に会いたいという事件後閉口していた本音が吐き出された。彼は精神的に幼かったのだ。事件解決よりも保身を選び適当な証言をしたことも今となっては恥じている。亀裂の入った姉弟の関係を修復させることはできないかもしれない。それでも姉に伝えたかった。誰かにわかってほしかったのだ。

今作での石原さとみの鬼気迫る熱演は演技という枠組みを超越している。まさに型破り。美羽が見つかったという連絡を受け、警察署の階段を泣きながら駆け上がる場面に衝撃を受けた。もう自分が何をしているのかわかってないのだ。さらに受付で確認するも悪戯であったと知った沙織里は呆然と感情が歪に折れ曲がり慟哭とともに失禁する。初めてかも知れない。心が壊れる音を聞いたのは。

石原さとみは間違いなく凄かった。そしてそれを支える青木崇高も流石としか言いようがない。発狂する沙織里も泰然とする豊も娘が失踪した両親の姿として対極のようで同レベルにリアルなのだ。だからこそ共感できる。観客は悲惨な気持ちを抱きつつも涙は流れない。沙織里は観客の分の涙もまとめて担っているようなそんな凄まじさがあった。

同じ町で美羽と同じぐらいの子供が失踪した。初動が何より大切なのは沙織里は知っている。もしかしたら美羽の失踪と関係あるのかも知れない。失踪した少女の情報提供を募りビラを配る沙織里と豊。そのおかげで美羽とは関係なかったがその子は早々と発見された。沙織里は複雑だったことだろう。子供が見つかってよかったが美羽は帰ってこないのだから。ラストではその子供と母親が沙織里達の前に現れる。おかげで娘が帰ってきましたと。今度は美羽のために力を貸したいと彼女は言う。その時、恐らく美羽が失踪して初めてだ。沙織里が微笑し、豊が人目を憚らず泣き崩れたのは。

沙織里と豊の心に安寧が戻るのは美羽が帰ってきた時だけだ。報道されなくなっても、世間に忘れられたとしても二人の時間はあの瞬間から止まってしまった。身を引き裂かれるような辛い毎日、諦め方もわからぬ薄い希望を胸に強く強く抱きしめ、いつかまた家族三人で笑える日が来ることを願いながら彼らは生きていかなければならない。
くまちゃん

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