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ヴィレッジのkomagire23のネタバレレビュー・内容・結末

ヴィレッジ(2023年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

(完全ネタバレですので、必ず鑑賞後にお読み下さい)

「面白さはありつつも、途中で失われる緊張感と、その解決私案について」

結論から言うと、この映画『ヴィレッジ』は個人的にも面白く見ました。

しかし、鑑賞の途中で前半にあった緊張感が突然プッツリと切れてしまい、後半は前半とは打って変わって普通の映画になってしまったように感じました。
それによって、鑑賞後に傑作には届かない映画になっているなと思われました。

この映画『ヴィレッジ』の緊張感が途中で切れてしまうのは、主人公である片山優(横浜流星さん)の<心情の真実性>が、映画の途中で消えてなくなってしまうのが要因だと思われました。
そして、その主人公の片山優の<心情の真実性>が途中で消えたように感じられるのは、主人公・片山優を虐げていた、村長の息子である大橋透(一ノ瀬ワタルさん)がいなくなってしまうのが原因だと思われました。

片山優の父(淵上泰史さん)は、村にゴミ最終処分場が出来ることに反対運動をしていましが、ゴミの最終処分場の反対運動に挫折し、片山優の父はその過程で殺人事件を犯し、自らも焼身自殺します。

片山優の母である片山君枝(西田尚美さん)は、ギャンブルに溺れ借金を抱えて自暴自棄の生活を送っています。

そして片山優は、そんな父の死や母のギャンブル依存での借金を見なかったことにしているかのように、感情を押し殺し、父が反対運動していたはずの村のゴミ最終処分場で働き日常を生きています。

そのゴミ最終処分場でも、片山優は、村長の息子の大橋透からイジメのような可愛がりに遭い、夜中に感染性の医療廃棄物の不法投棄まで手を染めています。

それらの片山優の振る舞いは、まるで【能面】を被ったかのように<己の心情の真実性>を隠して(あるいは忘れようとして)生きていると観客には伝わって来ます。

しかし、観客からは、心の【能面】を被った片山優の振る舞いの背後に、逆に緊張感ある彼の<心情の真実性>が見て取れ、観客である私は静かな感銘を受けることになります。

この主人公・片山優の【能面】の背後に存在し続ける<心情の真実性>が、映画の前半に緊張感を生み出し観客を引っ張っていたと思われます。

しかしこの映画『ヴィレッジ』は、後半になって、前半にあった緊張感が途中で消えてなくなったと感じられます。

その原因は、片山優を虐げていた村長の息子の大橋透が行方不明になったことで、主人公・片山優の<心情の真実性>が雲散霧消し、観客からは見えなくなったからだと思われました。

片山優を虐げていた村長の息子の大橋透がいなくなることで、逆に片山優の<心情の真実性>が無くなります。
なぜなら、大橋透がいなくなることで片山優に出来てしまっていた心の【能面】が無くなるはずが、逆に片山優が【能面】そのものの存在になってしまったからです。

つまり、村長の息子の大橋透がいなくなることで、逆に片山優が大橋透的(あるいは多くの村民的)な【能面】そのものになってしまったということです。

観客の私は、片山優の【能面】の背後に確実に存在し共感していた<心情の真実性>が、大橋透がいなくなった映画の中盤で、消えてなくなってしまったように感じてしまいました。

これが、この映画『ヴィレッジ』が、途中で緊張感が失われ、傑作に届かない映画になってしまった原因だと思われます。

その後、映画での<心情の真実性>は、後にゴミ最終処分場で感染性の医療廃棄物の不法投棄を発見する(主人公・片山優を尊敬していた)筧龍太(奥平大兼さん)や、あるいは、その不法投棄を捜査する大橋光吉 刑事(中村獅童さん)に移行します。

そうすると、この映画は、後半からは、(筧龍太や大橋光吉 刑事などの)第三者的な<真実性>の視点から描かれることになるのです。
つまり、この映画は後半からは、第三者的な<真実性>の視点から描かれる”普通の映画”の印象に変化してしまったということです。

その結果この映画は、
A.前半の、主人公・片山優の主観的な<心情の真実性>の緊張感
B.後半の、客観的で一般的な<真実性>の視点

に前半後半で分離してしまっている印象を受けるのです。

この分離を解消するには、
あくまで、A.主人公・片山優の主観的な<心情の真実性>で最後まで描き切る
もしくは、B.客観的で一般的な<真実性>の視点で初めから描く

必要があったと思われました。

しかし、A.主人公の主観を中心、あるいは、B.客観的な視点、のどちらかで最初から最後まで描いてしまっても、この映画の良さは失われてしまうのです。

なぜなら、B.の初めから一貫した客観的な視点の描き方では、映画の前半にあったA.主人公の主観的な<心情の真実性>の緊張感は失われてしまいます。

一方で、A.主人公の主観を中心に最後まで描いた場合には、主観的な緊張感は最後まで持続しても、村長の息子の大橋透が中盤でなぜいなくなったのかというサスペンス的な描き方はなくなります。

つまり、主人公・片山優と大橋透との争いの中で、中井美咲(黒木華さん)が大橋透の首を剪定ばさみで刺して殺してしまう場面が、時間経過に従って描かれることになります。

そうすると、主人公に共感できる<心情の真実性>の緊張感はそれ以降も持続されますが、映画としては、犯罪隠ぺいや犯罪から逃げ切れるかといった、時系列に沿ったありふれた内容になってしまいます。

ただ私的には、1つだけ前半の緊張感を最後まで持たせながら、後半のサスペンスも維持する別のやり方があるように感じました。

その解決策とは、[映画の前半と後半で、主人公を明確に変える]策です。

つまり、映画の主人公は、前半は片山優で、後半は(後に不法投棄を発見しそれを探る)筧龍太に、明確に変えてしまえば良いと思われました。

後半も、(前半の片山優と同じような)筧龍太による主観的な<心情の真実性>の描き方であれば、最後まで前半同様の緊張感が持続することになったと思われるのです。

そうすれば、前半の片山優、後半の筧龍太の、それぞれの主人公による主観的な<心情の真実性>の緊張感に観客は共感しながら、大橋透が中盤でなぜいなくなったのかというサスペンス的な描き方も可能になります。

(最後の片山優が、村長である大橋修作(古田新太さん)を殺害して家に父親同様に火を放つ最後の場面で、再び主人公が(筧龍太から)片山優に戻るというのも、<心情の真実性>の緊張感という意味であり得ると思われます。)

この映画『ヴィレッジ』は、面白さがありながら、途中で緊張感が消えてしまう惜しさがあり、それが傑作には届かない要因になっていると思われました。

そして、その解決策は、主人公を途中でバッサリと代えることで可能だったのではないかと思われ、惜しい映画になっていると僭越思われました。
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