前作は良くも悪くも社会に強い影響を与え、特に「悪くも」の部分、この作品の主人公に影響された人々が実際に事件を起こしてしまう様な事が世界中で起きた(日本でも京王線の事件や奈良で有名政治家を狙った犯人がジョーカーに影響されていた事は記憶に新しいだろう)。作り手は映画の大成功と同時にこの辛い事実に打ちのめされたに違いない。
そんな事もあってか、本作には安易なカタルシスを観客に与えない様な演出が非常に多く、明らかに作り手がジョーカーというキャラクターのカリスマ性を奪おうとした形跡がある(故にレディー・ガガという圧倒的なカリスマに映画全体が喰われてしまっているという問題もある)。裁判劇というフォーマットを利用して物語が進行する過程で、前作が持つ映画的な魅力を全て解体、否定していく本作はどうしたって前作のファンからは反発を喰らうことだろう。
しかし、本作は勇気を持って「ジョーカー」を裁判にかけ、その結果は作り手が「報いを受ける」と高らかに宣言してみせるのだ。
トッド・フィリップス監督は前作制作時、「タクシードライバー」の様な映画を作りたかったが企画が通らないだろうからバットマンというIPを利用した旨を語っていた。そして本作においては、前作とは同じ様には絶対にしたくない、とも。マーティン・スコセッシは、直接的には「タクシードライバー」のアンサー映画は作っていないわけで、そういう意味でも新しい映画の境地を切り拓いたと言えるだろう。